形状記憶少女

// うたかたの音

 僕がこの町にやってきたときから、海鳴りと潮騒は絶え間なく耳に届いた。今日はそれに加えて、雨音がしとしと、囁いていた。
 お盆ついで久しぶりに訪れた祖母の家は、ずいぶんと傷んでいた。家中がきしみ、今日のように雨が降るとどんな所からでも雨もりをする。食卓で僕のみそ汁の中にしずくが落ちたときは、誰しもが優しく笑った。恥ずかしくて文句を言うと、バケツやたらいが平然とそこらじゅうに置かれてしまう。とたあん、とたあん。かならずどこかから、水音が響くようになった。不思議だった。また、音が足されたのに、全然うるさく感じない。
 来たばかりの時は、この町には音がないと思った。車はまったく通っていないし、音楽が聞こえるわけでもない。人の声だって、本当は僕以外誰もいないんじゃないだろうかというほど、しなかった。だからこそ、普段それらに溶けて消えていた音が、聞こえるようになったに過ぎないんだろう。僕は耳をいじる。きもち、ここに来てからやわらかくなったような気がしたからだ。嫌いじゃない。
「さよ」
 さよ、と名前を繰り返す。音たちに溶けきぬよう、また、名前が音たちを溶かさぬよう、慎重に。僕は意識しなければならないのに、ここよ、とさよの声は簡単に慣れ親しむ。
 声をたどると、普段親族一同が集まったときにしか使わないような、だだっぴろい部屋をさよ一人が独占していた。白い紙から、つたない落書きから、すべてをぞんざいに打ち広げている。クレヨンの箱はからっぽだったが、手を伸ばせば届く程度にクレヨンが転がされているだけだった。僕はあきれながら声をかける。
「さよ、何してるんだ」
「見たまんまじゃない」
「ぐうたらしてる」
「違う」
 不機嫌そうに、口を尖らせた。
「絵を描いているの。芸術的でしょう」
「さすが、おばあちゃんの家にずっと住んでいるだけあるな。暇つぶしは心得ている」
 妙な褒めかたをしたのに、さよは嬉しそうに笑う。
 僕は一枚、さよの足元にあった落書きを拾った。青と水色のクレヨンだけで、やわらかに優しく塗られていた。抽象画と言えば聞こえはいいかもしれないけれど、僕には何が描かれているのかさっぱりわからなかった。やはり、心得たのは暇つぶしだけらしい。絵の技術力は残念ながら、だ。
「これは何を描いているんだ」
「わからない? まあ、わからないよね」
 僕の手から紙を奪って、さよはじいっと、あらためてその絵を眺めた。ためいき。
「今の音を描いていたつもりなの」
「音を」
「そう。テレビのバラエティでね、影響されて。共感覚の特集だったんだけど」
 きょうかんかく、と口ずさむ。漢字すら思い浮かばない。ぴんと来ていない僕に「まあ、さほど有名じゃないしね」とさよは小さく呟いた。
 さよが言うに、共感覚は文字や音に色を感じたり、形に味を感じたりするそうだ。内容を聞いても、たしかに聞き覚えはない。さよは手元の紙を投げ捨てて、またため息をついた。
「ついでに簡単なテストもその特集でやったんだけどさ、私、本当にさっぱりだったのよ」
「だったら、なおさらこんなの描いているのは変だろう」
 さよの絵を一枚一枚、拾い集めながら言う。さよはもう描いた絵に興味を失ったように、それを見ることすらせず、新しい絵を描き続けていた。ううん、と僕の言葉に首をかしげる。
「でも、描きたかったの。ううん、今も描きたい。今の音を全部形にして、またいつか見たときにはっと思い出したいの。そんなことができたら、私はたぶん、泣けるよ。すごく」
 手を止めない。僕はまるごと、彼女に同意できた。そんなことができたら、きっと僕も涙する。自分で塗った鮮やかな色に、むせび泣ける。想像しただけで、すこし瞳が潤んだ。海鳴りと呼吸と鼓動を、ゆっくりと、合わせるように落ち着こうとした。
 なによりぼくは、ずっとこの家にいるだろうさよでも、そんなことを望んでいたことに驚いた。素直にそれを伝えると、さよは照れたように笑う。
「私だって、このままでいられるとは限らないよ。この音や色を、そのまま愛し続けられる自信はない。大人になって、うざったく思ってしまうかもしれないし、もっと違う面で美しいなあ、いとしいなあって思うかもしれない。だから、ひとつひとつ、それらを保存……って言ったら変だけど、とっておけたらいいと思ったのよ」
 それだけ。  と、さよはクレヨンを置いた。黄緑と、水色と、白と、ほんの少しの赤が紙に描かれていた。
「今日帰るんだったっけ」
「うん、そうだけど」
「なら、この雨は遣らずの雨ね。おばあちゃんのしわざかしら」
 雨がおばあちゃんのしわざ?
 さっきから、不思議なことばかりさよは言っていた。また解説を求めようとしたところで、今度はふふん、と自慢げに口を開いた。
「今度はちゃんとした言葉なんだからね」
「聞くよ」
「よろしい。って言っても、大したことじゃない。相手を帰したくないみたいに、ちょうどいいタイミングで降ってくる雨のこと。それが遣らず雨。この時期の雨はめずらしいし、あんたが来たのはもっとめずらしいことだから、おばあちゃんがお願いしたのかもねってこと」
「帰ってきたおじいちゃんの霊を引き留めたいのかもしれないよ」
 そう返すと、さよは目をまん丸くさせた。そして、やっぱり笑った。
「おじいちゃんと一緒に、もうちょっと居座ってもいいんじゃない。なおさら、おばあちゃん喜ぶよ」
 ふうん、と曖昧に相槌を打った。外を見る。空はまだ鉛色で、しばらく雨もやみそうにない。どこかでとたあん、とたあん、としずくの音は続いていたし、海鳴りも潮騒もおそろしげに聞こえた。
 それに、とさよが黄色のクレヨンを僕に手渡して言う。
「久しぶりに会った従姉妹の作業を手伝ってくれても、喜んじゃうよ」
「……まあ、悪くはないね」
 クレヨンを受け取って、まだ何も書かれていない紙に、そっと線を引いた。共感覚はあいにく持ち合わせていないけれど、それでも、いつかこの絵を見たときに僕は涙を流してしまう予感がした。

( 100115 ) 戻る 
inserted by FC2 system