// 流れ星を見た

 人間の瞳は宇宙である。慎重に慎重に人の瞳を見つめているとよくわかる。いつもならその人だけの星が浮かんでるに過ぎないのだけども、たまにきらりと流れ星が通る。その瞬間が僕はとても好きだ。ただ、それは世界の誰かが失明した瞬間でもあった。瞳にあった星が壊れると、そのカケラが飛んで綺麗な曲線を描くのだ。そしてそのカケラがまた誰かの星にぶちあたったりなんかして、繰り返される。昔から偉い人から頭のいい人まで誰もが止めるための研究をしていたけれど、まだ誰も止める方法もなぜそんなことが起こるのかもわからないでいた。それでいいと僕は思う。それは理解してはいけないもの、理解すべきではないものなのだ。いいじゃないか。何事も突然失われる。その中でも美しく失われたり、とても醜く失われたりする。だったら、理由も分からず美しく消失してしまえばいい。だから僕は、それを愛している。
 ある日のことである。僕は駅のホームで電車を待っていた。夏の暑い日で、もう学生は夏休みを迎えたころかと思う。ぼんやりと熱気に酔いながら、腕時計を何度も見る。隣にすっと女子高生が並んだ。
 先ほど言ったとおり、学生はすでに夏休みを迎えていた。それなのに女子高生とわかった理由は、簡単な話、制服だったからである。白い半袖のシャツに紺色の長めのスカートは、それはそれは暑そうだったのだけれど、髪型もそれを助長するようだった。長い髪が梳かされている様子もなく、だらんと顔の三分の二も覆っていたかと思う。
 ついちらり、と失礼だとは思いながらも覗いてしまった。彼女もその視線に気付いたのかこちらを見た。黒い瞳。星が宿っている。さてここで微笑んでみたりするべきだろうか、と悩んだ瞬間、彼女の左目が真っ白に輝いた。彼女の顔を一瞬だけはっきりと見せる。色白の肌と、細めのまゆ。 女子高生は長い髪の隙間から見える表情をぐるりと変えた。そして一言だけ声を上げた。
「いっ……」
 彼女はその後、左目を押さえて倒れこんだ。なんとも表現のしようのない泣き声をあげながら。周りで電車を待っていた人々が一斉に彼女を見た。もしやこれは僕が何かしたかと勘違いされるのだろうか。それを考えた瞬間、少し慌てたが一人の老人が駆け寄って、彼女の左目を押さえた両手を無理やり剥がし、小さくつぶやいた。
「いかん、流れ星に当たったか」
 それは、僕がこよなく愛した星の流れた瞬間だった。
 その後誰かが連絡したらしい救急車がやって来て、彼女を運んでいった。ついでに僕も運ばれた。救急隊員の人が言うに、流れ星に当たった瞬間を見た証人が欲しいという。そういう決まりらしい。そういえば小学校ぐらいにそんなことを教えられて気がした。定かではない。いずれにしろ幸か不幸かその証人が僕しかいなかったようだ。暇人といって相応の立場だったので、了承した。そのときも、まだ僕の胸はどきどき高鳴っていた。
「すみません、こちらに名前を書いてもらえますか?」
 病院に着き、少女が救急治療室に運ばれていってしばらくすると看護士が声をかけてきた。どうやら流れ星の書類のようだ。保険か何かにも関係して、いろいろ面倒なのだろう。しかしこの貴重な体験をさせてもらったのだから、これぐらいは仕方があるまい。
 保護者に連絡を取ったか、彼女の意識が戻ったのだろう、既に少女の欄については一通り書かれていた。書類を書きつつ、それに目を通す。性別女性、年齢十六歳、名前……ヒシカワナホ。菱川奈帆。ひしかわ?
 どこかで聞いたことがある名字だ。そこまでありふれた名前でもあるまいし、知り合いもそこまで多くない。さて、どこで聞いたものかと考え始めると、ふっと頭に表札が浮かぶ。うちの表札の、すぐ真隣の表札だ。菱川。なるほど、お隣さんか。たしかおばあさんとお孫さんがいたのを記憶していたが、彼女だったか。
「書けましたか?」
「あ、はい。これでいいですか」
「ええ、ありがとうございます。あ、あと菱川さん――あの子がお礼を言いたいそうなので、もうすこし待ってくれますか?」
 若い看護士が可愛らしく微笑んで首をかしげた。別に断る用事も理由もない。本当に暇人なのだ。不器用に微笑んで頷くと、ひどく嬉しそうにされた。本当にいい人なのだ。
 看護士も去ってしばらくすると、見覚えのある制服姿の少女がよろよろと出てきた。菱川さんだ。左目にはやはり眼帯がついていたが、その姿はやけに様になっている気がした。辺りを見回し、僕を見つけると近寄ってくる。
「あのう、証人に、なってくださった方、ですよね」
 一言ささやくたび、呼吸する。そのくせ本当にささやくという表現がぴったりなほど小さな声で、覇気がなかった。やはり流れ星に当たったせいかと思ったが、これは元来の性分だろう。うなずくと、僕以上に固い笑みを見せた。
「ご迷惑をかけて、すみません。ありがとうございました」
「いえいえ、ご近所さんですし」
 え、と戸惑いの声。名を名乗ると、しばらく思案したあと、ああとうなずいた。覚えていたらしい。良かった。僕は帰るついで彼女を家に送ることを提案する。無論拒否されたが、どうせ隣の家だ。看護師さんの説得もあり、受け入れられることになった。
 帰り道、僕も彼女も何も言わなかった。しゃべることがないのだ。しかし二人並んで歩いている姿は、やはり恋人に見えるのだろうか。それとも兄妹に見えるのだろうか。
「わたし」
 菱川さんが言う。僕はうん、と相槌を打つ。
「わたし、怖かったです。痛いというより、ただ怖かった。目の前が真っ白に光って、一瞬、天国かと思いました。でも、あなたがいて良かったです。わたし、あなたが好きだったんです」
「……ほんと?」
「本当です」
 菱川さんの横顔を見る。まっすぐと前を見ていたのだけど、ちょっと頬を染めていた。さっき知らない感じだったけど、と言うと、演技です、と言った。そのあとすぐに嘘です、と言ったけれど、結局何が本当かはわからなった。しかし、これはひどい。すぐ横にあった彼女の手を取りながら、思う。彼女は一瞬驚いて手を引いたけれど、離さなかった。
「そうか。うん、僕も奇遇に奈帆が好きになった気がする」
「気がしますか」
「そうです」
「そうですか」
 僕のあいまいな言葉にも、奈帆は喜んでいる。けれど、僕はあくまでフェアに行く。
「僕は、流れ星が好きなんだ。だから君を好きになった気がする。そうしたらまた、流れ星が見れるんじゃないかと思うから」
 僕は彼女が泣くと思った。あるいは怒って手を離すと思った。奈帆はどちらでもない。そうですか、とさっきと同じように相槌を打つだけだった。僕のほうが手を放したくなった。
 黙ってしまった僕の代わりに、奈帆がしゃべる。一年ぐらい前から窓から見ていたと。僕の首が好きなんだと。今手を握って、手も好きになったと。彼女は語り続ける。そして最後に言う。
「私を好きになっても、また流れ星を見る可能性は低いよ。一生に一度、あるかないからしいから。もし見たいなら、他のまだ流れ星に当たったことのない人を好きになって」
 そう言って、家の前で手を放した。頭を下げて、家に入っていく。僕の手は自由になったというより、ぼっちになったようだ。僕も家に入る。夕飯も食べずに、ベッドに入って眠った。母に少し心配された。
 僕は奈帆の言葉に惑わされているのだ。流れ星が好きなのか、奈帆が好きなのか、わからなくなったのだ。好きになった瞬間も期間も関係ない。ただ、どちらが大きくなるかだ。
 僕は想像する。もしまた、奈帆が流れ星に当たったら。僕はたぶん泣いてしまう。奈帆が傷ついたことに悲哀して。そして流れ星が当たったことに歓喜して。そしたら奈帆が傷つくだろうか。それとも今日のように冷静に、良かったね、と言うのだろうか。僕は耐えきれない。想像ですら。
 一週間、外に出る気がしなくて、家に閉じこもった。夜だけカーテンを開いて、夜空を見た。僕は何度も奈帆の流れ星を思い出す。何度も何度も。美しい、悲しい、あの光景。
 八日目の朝、奈帆が訪れた。
「外出てないんだもの」
「なんで知ってるの」
「わかるでしょ。私ストーカー体質だから」
 奈帆は笑う。もう眼帯を付けていない瞳を細めて。視力は下がっただけで、もういらないらしい。コンタクトを片方だけ買わなきゃ、視力良かったのに、とやはり笑う。奈帆はつい先日知り合ったばかりの僕を分かりきったような態度で接する。なぜ、と僕は聞いた。奈帆は答える。わかりやすいから、と。
「……奈帆」
「はい」
「もう一枚、コンタクトが必要に、ならないでね」
「はい」
 奈帆は笑う。ほら、わかりやすい、と。しょうがないから、僕も笑った。不器用に苦々しく。

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