// 始まらない旅を

 紙とペンを。パンと水を。小さな革製のかばんは、それだけで既につらそうだった。
 すこし迷ったのち、一冊だけ本を選んだ。ハードカバーだと重くなってしまうし、新品だともったいない。だから以前町に訪れた古書屋がおまけでくれた、しみで汚れた文庫本を選んだ。
 最後にハンカチで包んだ鍵を入れる。幼い頃に旅人からもらったものだ。わたしの宝物である。もらったときのことは、今でもよく覚えていた。
「世界に扉がどれだけあるか、分かるかい」
 旅人はそうささやいた。彼の真っ黒な瞳は動かない。しかしその瞳の中に、その問いの答えが潜んでいるような気がした。ねたばらしを恐れるように、私はそっと視線をそらす。しばらく考えるが、一枚一枚数えていたってきりがないし、そもそも私は世界中の扉を見たことがない。
 仕方なく、肩をすくめて正直に話す。
「分らないわ。でも私の家にドアは六枚あるから、それよりもっとあるっていうことは分かるわ」
「ははは。君は頭がいいね」
 大した答えを言ってはいないのに。薄汚れた旅人は、横に置いておいたぼろぼろの帽子をかぶった。
「もう旅に出てしまうの? 昨日来たばかりじゃない」
「昨日僕を案内してくれた商人だって、昨日のうちに帰ってしまっただろう」
「あの人はまた一週間たてば来るわ! でも、あなたは来ないでしょう。もう二度と」
「いや、わからないよ。またいつか、この村に来るかもしれない」
「でも私ももしかしたら旅に出るわ。私が旅に出たら、あなたと追いかけっこで、結局会えないかもしれない」
「ううん、君は本当に頭がいいね」
 困ったように笑いながらも、もう絶対にこの村に来ないと顔に書いてあった。旅人に迷いがあってはだめなのだ。同情も名残も何もかも、その村に置いていく。それが何より守るべきことだと教えてくれたのは、昨日の旅人だ。でももし私がいつか旅人になるならば、今からそれを守るべきだと思い、黙った。そして彼を見送った。  あれが私の旅の始まりだったのだ、と思う。私はそのときから旅の準備を始めた。獣が襲ってきても大丈夫なよう、料理が作れるよう、テントが張れるよう。
 でもやっぱり、迷わないという守るべきことが私には守れないでいた。結局本を選ぶ時も迷ってしまった。きっと旅人の彼なら、迷わず一冊選ぶだろう。後を考えず、しかし後から役立つように。だから私は詰め込んだかばんをひっくり返してやった。だめだだめだと。顔をあげると、もう夜になっていたことにようやく気付いた。私はむしゃくしゃしたまま、ベッドに入る。
 いつか迷わぬ旅の始まりができるよう、また私は旅の準備を中断する。あの旅人と、その鍵に合う扉を探しに。

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