// ひとすじの愛

「煙草、嫌いなの」
 姉は煙草をくわえながら、そう言った。家のリビングで二人してぼんやりしていたときだ。私は本を読んでいて、姉はそんな私をじっと見ていた。最初ひどい冗談だと思って眉間に皺を寄せてみせたが、その怪訝な表情に彼女は小さく笑って煙を吐き出した。不健全な灰色が姉の細い身体をまとう。
 私は煙草を吸わないが、嫌いではない。ただ、家のどこからか姉の吸う煙草のにおいが届くのが好きだった。うちで煙草を吸うのは唯一姉だけだったので決して迷うことなく、いつだって私の鼻にしっかり届いた。吸い始めてからまだ日は浅いはずだったが、家や母のにおいのように、幼い頃からあるような姉のにおいとしてインプットされていた。だから結婚して家を出て行ったとき、ひどく寂しく思ったものだ。ただにおいが恋しいだけなのではないので、自分が、あるいは他の家族が吸うのはちょっと違うのだ。たとえ同じにおいが鼻に届いても、姉がいないことを思って悲しくなる一方だったのだ。
「そんなに嫌いなら、やめれば」
 彼女は私の言葉を待っていたようだったので、短くそう返した。いったいどんな言葉を求めていたかまではわからなかったので適当だ。姉は私の言葉にただううん、と悩ましげにつぶやき、灰皿にとんとん、と手馴れた仕草で灰を落とした。捨てるのを面倒くさがっているせいで、灰皿には灰がこんもり積もっている。
「そうじゃないのよ。なんて言えばいいのかしら。……うん、そう、他人の煙草、副流煙が嫌いなの」
「副流煙?」
 私が姉の吸う煙草から一筋上る煙を指すと、愉快そうに肩を揺らして笑った。そうすると首元の開けた服だったので、そこからちらりと古傷が覗くたび、なんだか背筋がひやりとした。しかし、いまだ理解には到底辿り着かない。
 そんな私を差し置いて、姉は今日一本目の煙草を吸い終わると、灰皿に押し付けて火を消した。姉は呟く。昔話をするには、あまりにちょうど良すぎる日和だわ。まるで芝居の台詞のような言葉に、私は現実から置き去りにされる。耳が遠くなるような、落下するような、遠くへゆく感覚だ。とにかくそこで、姉は私の知らない語ろうとしていなかったことを、今初めて言葉にしようとしていることに気付いた。
 姉はのっそりと縁側に足を投げ出して、私に背を向けた。そして煙草の箱から二本目を取り出そうとして、やめる。こんなときぐらい、やめるべきよね、と囁いて。外には青空が広がっていた。
「煙草を吸うようになったのはさ、単純にあの人……夫が吸っていたからなの」
 あの人、夫。そのふたつの単語のときだけ、すこし言葉をにごらせ話し始めた。
「ひどいヘビースモーカーだった。そりゃあもう、私が吸うようにならざるを得ないぐらいの。でもね、それでいて趣味の共有だとか空間の共有? ……なんて言えば分からないけど、私はあの人のことを分かっているふりをしていたかったみたい。そうやって私なりに完璧とは言わないけど、ちゃんと愛していたと思っていたの。でも、何を間違えたのか、だめになっちゃったのね。夫が外で女作って、暴力振るようになって、仕事やめちゃって……何がいけなかったのか、未だに分からない」
 窓から射す太陽の健康的な日差しとは、程遠い懺悔だった。
 姉の元夫とは、結婚前に何度か会ったきりで記憶は浅い。すべてが平均的な人で、姉とお似合いとも不釣合いとも言えぬ人だったように思う。ヤニ臭かったかどうかも、もう覚えていない。ただあの普通のこぶしと脚が彼女を殴ったり蹴ったりするためのようにあったかと思うと、なんとなく気持ちの悪いものが胸にできあがる。体に残る彼女の古傷を見ると、それが溢れそうになる。いつものようになんとか抑えて、話の続きを促した。
 姉は続ける。
「私はただ、好きな人の子供ができて産んで育てるっていう当たり前のことを望んだつもりだったの。でも、なんでだか上手くいかなくなった。それから煙草が、共有するための道具じゃなくなった。あの人が煙草を吸うたびに部屋の中ににおいが満ちて、それが部屋のすべてを支配してた気がする。暗くて重くて、身動きが取れないような雰囲気。今でもちょっと覚えてる。思い出すだけで吐き気がするけどね」
 笑う。腹に手を当て顔を俯け、控えめに。その笑い声を聞きながら、私はそっと思い出す。一度だけ行ったことがある、あの姉夫婦のマンションを。
 姉が離婚する際、荷物の片づけが一人ではできそうにないというので手伝いに行った。相当古いマンションで、大きくはあったもののやけに薄汚れていたのを覚えている。部屋に案内されて夫は仕事に行っているの、と言いながらも、なぜか「しい」と人差し指を唇に当てた。疲れきった表情とあんまりに合わない子供っぽい仕草で、ちょっとだけどきっとした。彼女はその仕草のまま微笑む。
「ちょっとこの部屋ね、歩くだけできしむ音がうるさいの。別に文句言われたりしたことはないんだけど、申し訳なくて」 「そう。なんだか、忍者みたいな生活になりそうだね」
 忍者ね、たしかにね、とひっそり笑う。たぶん、今まではそんな生活を送ってきてはいなかっただろう。きっと夫婦喧嘩をしたときや、一方的な暴力を振られたときの騒音からの申し訳なさがたたって、こうしているのだ。以前よりずっと細くなった姉の白い腕が、リビングの隅にあった食器棚を開くところをじっと見ながら思った。
「ここにあるお皿を、全部包んでダンボールに入れておいて。何か分からないことがあったら、聞きにきて。私は自分の部屋で服をしまっているから」
 頷いて、片づけを始めた。姉は少しだけ私を見ていた後、自室へ移動した。皿を新聞紙に包みながら、物があんまりないリビングをじっくり眺める。白い壁紙は二人が二人、煙草を一日何十本も吸うため、ヤニで黄色く汚れていた。あれも掃除するのか、それとも夫がそのまま住み続けるのかはわからなかったけれど、今はあれも姉の共有と愛情の証だったのだと思う。そしてカウンターのすぐ横に置かれたテーブルで、二人は日常を送っていたのだろう。
 そのテーブルで二人が静かに向かい合い、座っていたところを想像する。休みの日には夫が煙草を吸い、姉は自分の握った拳を見ている。姉は夫の機嫌を損ねないよう、じっと春を待つ小動物のように身体を縮めていたに違いない。部屋には煙草のにおいが蔓延して、暗い日曜日がそのまま終わる。
 正しい想像かわからないが、それ以上の想像はつかなかった。
「でも、不思議ね」
 その姉の声ではっとした。姉の過去がじんわりと、私の身体に染みてゆくのがストップする。
「思い出すだけで吐き気がして、彼を思い出すだけのつらいことなのに、煙草をやめるなんて選択肢がないんだから。もう、だめなのね。たった数年のことだったのに、もう逃げられないぐらい私の身体に染み付いてるの。前は見るだけで思い出して泣きたくなって嫌だったけど、今はそうでもないわ。煙草が嫌いだったなら、吸い始めたときにもう嫌になってただろうし。でも夫に暴力振られても離婚しても吸い続けてるんだから、それはもう夫とまったく関係のないところで働いている愛情なのよね。でも、やっぱり他人の煙草はちょっと苦手。自分の煙草とはぜんぜん違って、もっとダイレクトに夫を思い出しちゃうから」
 姉の言葉にそういえば、とようやく思い出す。離婚して実家に帰ってきた姉は家の中だとよく煙草を吸っていたが、外で吸っているところを見たことがない。ただ単に外で吸うのが嫌いだったり、マナーとして吸っていなかっただけだと思っていたのだ。だから煙草好きといっても、ヘビースモーカーなイメージはそれほどなかったのだけれど。
 姉がそっと振り返る。逆光で一瞬泣いてるかと思ったが、そんなことはなく、やっぱり微笑んでいるだけだった。
「ね、ご褒美に火をつけて」
「何のご褒美よ……」
「いいから」
 仕方なく差し出されたマッチ箱を受け取る。普段姉は百円ライターを使っているのだけど、どちらかというとマッチのほうが好きな人だ。しかし不器用なので、うまくつけられないという。そこで以前私がこうやるのよ、とやり方を見せると喜び、なんだかいつもより美味しいわと極上の笑顔でぷかぷか吸っていた。結局やり方を取得はできなかったのだが、それから私の気が向いたときに姉の煙草の火をつけるようになったのだ。
 姉がくわえる煙草に火をつけながら、私は嫌みったらしく言った。
「もうすぐ手術近いのにいいの?」
「うーん、いいのいいの。だってさ、子宮取るための手術よ? そもそも、もう妊娠できないけど……妊娠したら煙草吸えないの。でも子宮取ればそんな心配、たぶんまあ、一生なくなるからね。私の人生は、煙草に尽きるみたい」
 姉は元夫からの暴力のせいで、一度できた子供を流し、子供ができない身体になった。そのときの姉が一番ひどかったし、離婚する原因となり離婚できた理由となったのもたしかだ。もし子供が流れず産まれていたり、そもそも子供なんてできなかったら、未だ姉はあの人の元にいたと思う。子供が身を挺して母を救ったなんていう馬鹿みたいなことが考えないが、子供が姉を救った事実は間違いないはずだ。
 姉はきっとそんな人生まるまる含めて、今も昔も子供が欲しくて、しかしできないということに彼女なりに悲しみを感じている。産まれるはずだった子供に、もう夫に向けられない愛情をしっかり溜めておいたのに、それすらもできなくなったから煙草に向けているだけなのだ。姉にとって煙草は夫であり、子供であり、もしかしたら愛情そのものなのかもしれない。
 姉は満足げに煙草を吸いながら言う。
「煙草嫌いだけど、あんたの煙草はちょっといいかも。煙草仲間が増えるし、なによりもらい火できるし、ね」
 また腹に手を当てて笑ってみせたが、ひどく寂しげで泣きそうな表情だった。私は煙草を一度も吸ったことはないし、きっとこれからも吸わないだろうけれど、そのときはなんとなく、口の中が苦く感じた。

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