// 待ち人死人

 わたしの母はいつでも死に物狂いに行動していた。料理をしているときでも、仕事をしているときでも、遊ぶときすらだ。どんなことでも見てる人を圧巻させ、恐怖させるような力強さを感じさせた。一人娘であるわたしですら幼い頃からその姿を見ていたというのに慣れなかった。あんまりにも必死すぎて、いつか彼女は本当にそのまま死んでしまうんじゃないかと思ってたぐらいだ。実際、彼女はその思考をより確定させるような、死にたがりだった。お酒を飲んでいるとき、それがよくわかる。
 記憶にいる母は頬を赤く染めて、赤いワインが注がれたワイングラスを揺らしながらうっとりと窓の外を見つめていた。町を照らす遠くの明るい外灯を見てるのか、それともただ暗い空に小さく輝く星を見てるのか、幼いわたしには判断がつかなかった。彼女はわたしにじっと見られていたことに気付くと、いつもの緊張など感じさせない、やわらかな照れ笑いを見せて膝に招いた。わたしは骨ばった膝にちょこんと座る。そうすると、相手はまだ小学生にもならない年頃の子供だというのに、死について母は淡々と語り始めるのだ。
 ママはね、自殺したいな、と思うの。自殺っていうのは、自分を殺すことなの。分かる? 殺す、っていうのは、わかるかしら。推理ドラマでよく言われてるでしょう。うん、そう、分かるならいいの。でもね、自殺ってのはとっても難しいことなのよ。最近はなんでもお金の世界になったから、死ぬのだってお金が必要なの。例えば、飛び降りするなら、道路が汚れちゃうから掃除してくれる人とかにお金を払わなきゃでしょう。それにその道路を使う人たちにも迷惑がかかるし。そうね、首吊りっていうのもあるけど、ママはあんまりやりたくないなあ。首を吊ると、筋肉が緩んで、おしっことかうんちが漏れちゃうんだって。ママも女の子だからね、それは嫌だな。入水……は、身体がぱんぱんに膨れちゃうらしいし。練炭とか薬じゃ、ちょっとつまんないよね。うふふ、でも、あなたが素敵な女の子になるまで、ママは死なないわ。ボーイフレンドも見てみたい。ママの着れなかった可愛いドレスも見たい。純白じゃなくていい、黒でも赤でも青でも、何でもいいから。
 そうやって、いつだって最後にはわたしの将来の話になった。でもその頃には、わたしは大抵寝てしまっていたもだけど。なぜなら難しい言葉を最初は説明してくれるが、途中では独り言のように流されてしまって、つまらなくなるからだ。今ならよく理解できるし、なんて危ないことを言っていたんだと思う。だがそう言う人ほど死なない、と言ったものだ。母はわたしが成人して、恋人もできて、結婚までしたのにまだ生きていた。ただし病気にかかって、もう死にかけではあったが。
「結局、結構長生きしちゃったわねえ」
 病院のベッドでしみじみとそう言った。母はまだ年齢も見た目も若かった。そんなことない、と首を振ったが笑って返される。
「こんな恥ずかしいことないわよ。若いとき子供に散々死にたいよー、って言ってたのに、こんな生き延びちゃって」
「今でも死にたいと思う?」
「うーん、そうね、やっぱり病気では死にたくないな。うふふ、いやね、普通病院でする会話じゃないわよ」
 そう笑いながら言うと、彼女はひとつ、疲れたように大きな溜息をついた。それでも瞳はよどんでなくて、以前よりもずっと真っ直ぐで綺麗だ。変わったと思う。あやふやな記憶を拾っていくとよくわかる。昔は生きることに疲れてしまって、母には死が魅力的に見えて、憧れだったのだ。でもわたしという娘の存在が、ずるずると引きずって死はいつまで経っても近づかなかった。そしてわたしがもうすっかり大きくなってから、死が体を蝕んでると分かると怯えた。そういうものだ、とわたしは思う。手が届かないものは、どれだけでも脚色できるけれど、手に届いてしまえば体全体で感じてしまう。いくら美しさを描いたって、描いてる最中にだって現実を感じる。悲しいことだ。
「変ね」
「何が?」
「やりたいことはやりきったはずなのよ、わたし。覚えてる? ずうっとあなたに話してた夢。あなたの恋人を見て、ドレスを着た姿を見るの。もうやりきったの、本当に。悔いなんてないはずなのに、おっかしいわねえ。今度は死にたいんじゃなくて、孫の顔が見たいの。あ、別に早く産めって言ってるわけじゃないのよ。ただ、普通に欲として出てきてしまってね。ああ、なんてことかしら。予定外だわ」
「いいことよ、生きることに欲はつきものじゃない」
「そう、そうねえ」
 そう呟いて、彼女は溜息をもう一度ついた。本当に驚いているようだった。わたしはその様子がすこし面白くて、笑ってしまった。
「うん、そうよね。ああ、疲れたわ。久し振りにたくさん喋ったから。もう寝るわ」
 そういうと素早く布団をかぶりって「おやすみ」とぼやいた。わたしはすこし呆れながらも、用事があるので部屋を出ることにした。しかし扉を開こうとすると、同じく廊下側からも開けようとしていた人がいるらしく、ドアノブに変な力がかかった。看護士さんが来たのかもしれない、と横に退いた。相手もこちらに気付いたらしく、控えめに開く。
 看護士さんでも医者でもなんでもなかった。白髪の目立つ、ただの普通のおじさんだった。しかし表情はやけに若々しく、年齢が読み取れない。はて、母にこのような知り合いがいただろうか。入院中に見舞いに来てくれるような人だったら、大抵顔見知りである。このおじさんに見覚えはない。でも、たしかにどこかで会ったような気がしなくもない。
 思わず、じいっと見つめてしまった。おじさんのほうも、じいっとわたしを見つめる。わたしとおじさんはそれなりに長い間見詰め合っていた。しばらくして、我慢ならなかったようにおじさんは笑い出した。そこでようやく、はっとした。
「すみません、なんかずっと見ちゃって」
「いや、大丈夫だよ。僕も見ていたわけだし。遅れて悪かったよ」
「いえ、別に」
 ん、遅れて? 何か約束をしていただろうか。いや、今日は誰も訪れる予定はなかったはずだ。おじさんに再度目を合わせる。今度は笑うわけでもなく、ただ目を細めていただけだった。わたしはようやく、ああ、と気付く。
「ああ、前言撤回です。別にどころじゃないです」
「はは、だろうなあ」
「でも今は、ううん、どうだろう。もしかしたら、会わないほうがいいかもしれません」
「ん、どうしてだい?」
「……いえ、やっぱりいいです。会うべきでしょう。わたしは用事があるので帰ります。さよなら」
 ぺこりと頭を下げて、廊下を出る。何か問われる前に扉を閉めてやった。やれやれ、なんてこったい。これじゃあ、母はもう今までも今までだったのに、今からなら本当に更になお、いつ死んでもおかしくなくなってしまった。母はきっと、あの人に会うためだけに今まで生きてきたようなもんだったから。
 気がつくと、わたしは涙ぐんでいた。ぬぐいながらちくしょー、と思う。きっと母が起きるまで隣の椅子で、じいっと母の寝顔を見て、起きるのを待っているんだろう。起きたら優しい笑顔で迎えてしまうんだろう。母はきっと、わたしよりもずっとずっと泣いてしまうだろう。本当はわたしの存在よりもあの人のほうがずっと大きくて古くて重かったのだから。
 まったく父よ、遅いよ。あなただって知っていたでしょう。あの人が死に物狂いな人だってこと。あなたを待つまで、本当に死にそうだったんですから、そのへんちゃんと覚えていてください。わたしはもう一度思う。ちくしょー!

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