// プラスマイナスゼロの愛情を

 果物ナイフが痛かった。指で刃をなでるとつるりと冷たいくせに、腹に刺さった瞬間熱を持って僕を責める。あ、でも背筋がひやりとした気がした。ほんの一瞬だけ。
 あとは、あとは僕の腕の中にいる、その果物ナイフの持ち主で僕を刺している張本人の彼女だけ。彼女の熱だけ。ひんやり冷たい生きてる温かみ。伸びた爪が痛い、と思った。不思議だ。果物ナイフのほうが絶対的痛みを持っているはずなのに、感覚は優しく鋭く爪の痛みすらも受け取っている。人間ってなんて不思議なんだろう。
 あと不思議なことって言ったら、彼女が果物ナイフを刺したまんま泣いていることとか。どっちかっていうと僕が泣くべきで、本当に泣きたい。まじで痛いんだから。
「ご、ごめんなさい」
 彼女は可愛い小さな泣き声で謝る。鼻をすする音。でも果物ナイフはしっかり握ったままだ。彼女は僕の恋人だった。元は同級生で、クラスメイトで、それ以外はなんでもなかった。なんと彼女から付き合ってくれと告白されたので、そのとき恋人もいなかった僕は了承した。それだけだった。僕にとってのそれだけは、きっと彼女にとっては人生ひっくるめた一大事だったのだろう。
 僕は冷静に、自然と荒くなる息を抑えて、彼女にささやいた。
「なんで刺すの」
「……刺したら……」
「聞こえないよ」
「聞こえたら怒られちゃう」
 彼女はぼろぼろと泣き続ける。そうすると果物ナイフを持つ手も震えて、振動が内臓をくすぐってとても痛いのだ。僕は彼女の手を優しく包み込んでそれを押さえる。大きく息を吐いた。
「理由で怒るなら、とっくに刺したことを怒っているよ。でも僕は怒ってない。だから理由ですら怒らない」
「……そう、よね。理由はね、理由は、今の」
「今の、って」
「そういうところなの」
 ぎしりと彼女の歯軋りが聞こえた気がした。ちょっとだけ驚いた。彼女は少なくとも僕の知る限り、そういう古い少女漫画のライバルみたいなそんなことをする娘じゃなかったからだ。まつげが長くて瞳はきらきらしてて、でも何らかのぐるぐるしてる強い感情を抱いて僕を見ている。
「私はあなたに憎んで欲しいの」
「憎しみ?」
「だってあなたは、私に何もなかった」
「……誕生日プレゼントとかあげたよ」
「そうじゃない。あれは惰性みたいなものだったよ。感情はなかった。気持ちがこもってるものなら何でも嬉しかったけど、何もこもってなかったから嬉しくなかった。それがあなたは私にすべてだった」
「君に何も感情を抱いてなかったってこと?」
「そう。私ばっかりあなたを想ってた。私とあなたを足しても、きっと私の想いだけしか残らない。愛情と憎悪でプラスマイナスゼロだったらまだ良かった。あなたはそんな話じゃなくて、ゼロですらなかったの。ゼロよりもっと遠い、別次元とか別世界みたいだった。私はそれが許せなかったの。きっと私はもう、これ以上あなたに私を想ってもらうことは出来ない。だから、せめて、憎んで欲しかった。あなたのなかに私がいてほしかった。だから、だから」
「――刺したんだね」
 僕はとても悲しいと思う。僕は僕なりに彼女を考えていたのだ。しかしそれは彼女にとってゼロ以下ゼロ以上でゼロでもなかったのだ。僕は泣きたくなる。しかしここで泣いてはいけないのだ。せめて彼女が加害者であってほしくなかった。いや、っていうか、果物ナイフを刺したところで法律的にもう既に加害者なのですが。まあ、僕なりの最後のたったひとつの愛情ということで。
「ごめんね」
 そうささやいたら、意識が飛んでくのがわかった。白いような黒いような、とにかく彼女が感じた僕の思いのように遠いものだった。ただ最後彼女はとても惜しかったなあと思うことがある。僕が死んでしまっては、僕は彼女を憎しめないっていうことだ。まあ、生きていても憎しまないんだけどね。
「あいしてる」

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