// におう

 窓際の水槽で泳ぐ、二匹の金魚に餌をあげることにした。たぶん二週間ぶりで、水も替えてない。水面にぷかぷか浮かぶめだかが邪魔だったので、手ですくって池に放り投げてやった。きっと、鯉が食べてくれるだろう。水槽の水は、死体とエサとフンで、緑に汚く濁り始めていた。あとどれぐらい放っておけば、金魚が見えなくなるのだろう。でも死んだら、このめだかみたいにぷかぷかと浮かんで、赤い腹を見せるのだ。腐ったにおいがするのかしら。今は部屋のすみでたかれたアロマの匂いで、よくわからなかった。
 まだ、だめだ。わたしはそう思って、部屋中の窓を開けた。とてもきれいな、半分の月が見える。それが嬉しくてたまらなかった。窓から部屋の匂いが外に放たれていく。ラベンダーの匂いとか、夕飯の残り香とか、あの人の匂いとか。忘れようとしてたのに、ぱっと思い出してしまった。努力するものじゃないわ、忘れることって。分かっているのだけど、あの人がいない恐怖とか寂しさを全部忘れたかった。忘れますように、どうか忘れますように。空にきらきら光る、針の穴みたいな星に願う。
 窓のほうにいると、アロマの匂いは遠く霞んでいた。持ってこよう。そして、頭を麻痺させよう。危うい足取りでアロマポットに近づいた。何の匂いだったかしら。ああ、そうだ、ラベンダーだわ。他の知らない名前の花が、どんな匂いなのか怖くて買わなかったのだ。でもよく考えると、わたしはそんなにラベンダーが好きじゃない。トイレみたいなあの匂いがリビングにも漂うと思うと、ちょっと嫌だ。それよりあの人の匂いが残ったまま、明日の朝起きるほうが嫌だけど。だからわたしは、リビングをトイレにさせる。
 アロマポットに手を取って、よろよろとまた窓際まで戻る。けれどわたしは、一つ忘れていたことがあった。アロマポットのコンセントを、差したままだった。手から落ちる感覚と一緒に、あの馬鹿そうな店員の声がよみがえる。
「よくお客様から、子供がコードに足を引っかけて、ポットが転んでしまうと言われてるんです。気をつけてくださいね」
 とても嫌みったらしいあの口調。でもあなたは大丈夫よね、だって子供いないんでしょう、とでも言いたげ。今思い出しても吐き気がする。化粧の濃いあの顔から、まずわたしは好きじゃなかった。ポットが落ちる間に、そんなことを考えていた。世界がスローモーションで、こんなことになるなら、もっと面白いこと考えればよかったなあ、とも思った。
 次の瞬間には見事、アロマポットからラベンダーの匂いをした液体が滴っていた。床に広がっていくのを見て、気持ち悪い、と思った。この匂いは、今のちょっとした時間だけでよかったのに。
「あの人の匂いが取れちゃうじゃない!」
 わたしは泣きながら、そう叫んでしまった。慌てて近くに放ってあった水色のタオルを手にとって、床をきれいに拭く。すぐに拭き取ったとしても、ちょっとは床に染み込んでいて、数日は匂いが取れないんだろう。嫌だ、嫌だわ。ラベンダーの香りよりも、あの店員よりも、何よりも嫌だ。あの人の匂いが消えてしまうのが。
 ぐずぐず鼻を鳴らしながら、タオルを投げた。もうだめだわ、世界の終わりだわ。そうとすら思えた。本当にだ。世界なんて滅亡してしまえばいい! さよなら世界!叫んで、わっと泣き出そうとすると、ぴんぽーんという音が遮った。出るの面倒臭いな、と思いながらもずるずる体をひきずって、インターフォンに出た。
「はい」
「ごめん、おれ」
 その声で、ぱっと世界に光が灯った。世界様、やっぱりさっきのなし。私は興奮を無理矢理押さえて、声が裏返りそうなのも我慢して、無理矢理落ち着かせて返す。
「何、来週まで来ないんじゃないの」
「忘れ物」
「もう」
 ドジね、と言いながら、胸がどきどきしているのを感じた。嬉しい。嬉しい。嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい。私は喜びを抑えきれない。
「それで、何を忘れたの?」
「うん、水色のタオルなんだけど」
世界は停止した。

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