// ふたりは泣いている

 彼女は冬の冷めた空気に溶けいりそうなほど、ひどく冷たい身体だった。もうすぐ死ぬことを、ぼくと彼女に知らしめるようだ。今そこにいることを確認するために、ぼくは彼女を優しく抱きしめる。ああ、彼女はいる。僕の腕の中に収まっている。彼女が俯けていた顔を上げて、ぼくの瞳をまばたきしながらじっと見てきた。その仕草が小動物のようにあまりにも可愛らしいので、思わずくちづけをしてしまう。ほんのすこしの後悔と、彼女と時間を共有した満足感が、ぼくの頭をそっとかすめる。
 くちびる同士が離れた後、彼女の白いあたたかな吐息が頬にかかった。甘くぬるい温度が、やけに胸をきりきりと痛ませる。でもきっとぼくよりも胸を痛ませているだろう彼女は、以前よりずっときづくなった頬のラインをゆっくりと柔らかくさせた。変わらないテンポの、笑顔の作り方。ぼくにだけに向けられた、きっともう数えられる程度しか見られないのだろう、寂しい笑顔。小さな黒い瞳の中に、ひとつ、星が輝いて見せた。
「一番星だわ」
「ほし?」
 消え入りそうなほど、淡い声色が空気を振動させる。そして、ぼくの耳に伝える。ただすべてが、奇跡のようだった。彼女がここにいることも、ぼくがその彼女を包み込んでいることも、甘いくちづけをしたことも、冬の夜空の下で喋り合っていることすらも。生きていること自体が奇跡なんだと、ぼくはそのとき本気で思った。今のこの一瞬も、昨日も一昨日もすべてが。世界は奇跡で満ち溢れている。ぼくは泣きそうになる。けれどそれに抵抗して、笑ってやった。彼女と額をこつんと合わせて、その瞳に輝く星を見つめながら、言った。
「そう、星はこんなに手が届きそうなほど、近くにあったんだね」
 少しの沈黙。彼女は悩むような表情を見せてから、納得したように微笑みながら頷いた。ぱっと輝いた笑みは、たぶん、今世界中で何より一番弱弱しいものなのだろう。少なくとも、ぼくはこれ以上優しくて、弱い、愛しいものを知らない。
「ロマンチックだわ。古い恋愛ドラマみたい」
「世間はこれをくさいと言うんだ。ひどいもんだよね」
「ふふ、そう、そうね。……でも、星は遠いから綺麗なのだわ。それにすぐに離れてしまう。空にあるたくさんの星と……何も変わらない――その中の、ひとつ」
 寂しそうに目を細めて、空を見上げた。澄んだ空気が肺に行き渡るよう、深呼吸する音が静かに聞こえた。けれど気が付くと、その音は泣き声に変わっていた。痛いぐらいに顔を押し付けて、彼女は泣いていた。嗚咽が静かなそこに響く。ぼくは深く息を吸って、さっきよりもずっと力強く抱きしめた。すると代わりに涙腺が緩んだのか、涙がぼろぼろこぼれてくる。大粒のそれは、頬を伝い、首筋を伝い、彼女の頭にしみこんでゆく。ぼくの一部が彼女と同化する。そして押し付けられた彼女の涙も、ぼくと同化する。たったそれだけなのに、ぼくらはすごく大切な仕事をしたように疲れきって、癒されてしまった。こんなにも曖昧なものなら、いっそ。……いっそ、どうする気だ。心中でもする気か、ばか。そんなのは何の解決にもならないぞ。
「ね、え」
 鼻をすすりながらの小さな声に、はっとした。引き戻される。彼女は泣きながら呟いた。あんまりに必死な願いだった。ぼくはきっともう、これから彼女と違う人を好きになっても、一人で生きてゆくにしても、二度と忘れられないだろう言葉を、聞いてしまった。彼女は人間なのだ、となぜか改めて、思ったのだ。
「一緒にいたい。死にたくないの」
 ぼくもだ、と手を取ってやりたかった。けれど同意できるほど、ぼくは彼女のようにいろんなことを経験した人間ではなかった。だからかわりに、やっぱり、抱きしめるしかなかったのだ。彼女の小さな頭を抱えて、見えない未来の思うのだ。二人分の泣き声が、遠く聞こえる。リンスのさわやかな香りが、いっそ憎かった。

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