形状記憶少女

// 肋骨の日

 わたしは本を読み干す。本当にそれ以外言いようのないほど、わたしは一冊の本を隅から隅まで読んで読み返して読み返して、題名も作者名も出版社も発行日も覚えたぐらいで、ようやく次の本へ移る。次の本も、丁寧に丁寧に、一文字残らず読み干す。喉から食道へ食べ物が流されるのを感じるように、文字がわたしの頭を埋め尽くすのを、感じる。
「――君は、本当に本が好きなんだね」
 名前も知らない少年が、感心したようにつぶやいた。この小さく静かな図書館では、そんな声もよく響く。こんな子いたかしらと、一瞬今までを思い返してみる。けれど記憶に少年の姿はなくて、詰め込まれた文字ばかりしか浮かばなかった。首をかしげて、たずねる。
「いつからいたの」
「……ずっと、さ」
 わたしはその少年の寂しげな言葉を聞いて、すこし反省した。人に気付かず、本しか見ていなかったなんて人間失格もはなはだしい。素直に謝罪の言葉を重ねると、少年は首を振った。彼の言葉も仕草も、どことなくさみしい気がした。本にしおりをそっとはさむ。
「さっきのお話だけれど」
 ちゃんと少年のひとみを見て話す。青色のふたつのひとみ。そういえば肌も不健康的に青白いし、黒く見える髪も少し青みがかってるようだ。あおいろのしょうねん。うん、いい響きだわ。わたしは少年に勝手に名前をつけてやった。青色の少年。繰り返してみる。そのとき、久し振りに、文字以外の美しいものが生まれ落ちた。
「あのような言い方だと、わたしがまるで生まれつき本が好きだった人間のようだわ」
「違うのかい」
「違う、わね」
 青色の少年は、静かにうなずいた。納得したような、してないような顔つきで。……表情なんて、さっきからずうっと変わっちゃいないけど。
「では、いつからだろう」
 わたしは沈黙する。わたしには、どうも彼が悪意と真実を知りつつ、たずねてくるようにしか思えないからだ。それでも、きっとわたしのほうがいくらかは大人なのだろうから、我慢してやった。わたしは、ひとつひとつ、言葉をつむぐ。それが真実であるように、正義であるように、願いながら。
「この世界に、なってから」
「……なるほど」
 そのとき、青色の少年は初めて微笑んだ。青い瞳を細めて、青ざめたくちびるを歪ませて、……それはまるで狂った人間みたいに。わたしは笑わなかったし、笑えなかった。
 わたしの以前の生活は、まったく普遍的としか言いようのない生活だった。両親がいて、弟がいて、学校に行って、友人と会って、暇人と遊んで、家でテレビを見て、誰かと喧嘩をする。本を読む暇も隙もないぐらい、(たとえそのときのわたしがとう思っていようとも)とっても充実した生活を送れていた。
 けれどある日、突然ぽんっと、消え去ったのだ。両親も弟も学校も友人も暇人も家もテレビも誰かも! ――そしてその、充実していたはずの、生活も。そして、わたしは、たった一人だけになってしまった(青色の少年の存在はさておいといて)。いや、もしかしたらわたしのほうこそが、あの世界から消えたのかもしれない。異世界? パラレルワールド? 知っている単語を並べてみたけれど、いくら並べても中身はからっぽだった。本を読んでも、使いかたを知らなければ意味がない。パソコンはただの箱のように、言葉はただの単語だ。いずれにしても、わたしの視点からすれば、すべてが失われたに過ぎない。ああ、この言葉こそ、何より中身がいっぱい詰まった、悲しい言葉じゃないかしら。わたしはそう思った。
「君はこの世界ゆえに、本を読むんだと」
「ええ、することがないから」
「することがない? それは、ひどい冗談だよ」
 青色の少年は、アメリカのホームドラマの登場人物のように、自然な仕草で肩をすくめた。その行動が、なんだかわたしをいらつかせる。でも、なるべくいらついていることを表に出さないよう、静かに微笑んでいった。
「どういうことかしら」
「どういうことも何もないさ。外に出ればいい」
 なんとなく、本をぐっと抱いた。上目遣いに彼を見る。先程と、何か特に変わった様子はない。ただ、彼が動くたびに、青みがかった黒髪も揺れるばかりだ。なおも、小さなくちびるは動き続ける。……その様子は、腹話術の人形のように、どこかそら恐ろしい。
「君は、外に出て、世界の変化と喪失の確認を恐れてるに過ぎないんだ。大丈夫。世界は君を受け入れるから」
「わ、わたしは。――もう、この変化した世界を、十分知りえた、わ。本当よ」「嘘だよ。もうここに逃げ込められないことも、知っているんだろう。そう、ここは所詮、一時の、逃げ場所。一時は、一時さ。一生じゃないんだよ」
 わたしは。わたしはそれでも――。
 ……まだ、逃げたかった。
「大丈夫だから」
 それでも青色の少年は、優しい声色でつぶやいた。自分に言い聞かせてるようにも思えた。わたしは、いつだってさみしげな少年の、何よりさみしいその言葉に、少しだけつられてみることにした。わたしは、そっと本を机に置いた。その音が図書館に、よく響いた。
 その数十年、数年とも思える長い日々は、ちゃんと冷静に考えると、せいぜい数ヶ月だったと思う。初めて外に出たとき、たしかいつもの世界の景観でありながら、人という人が、存在していなかった。けれど数ヶ月。――窓もカーテンも閉めて数ヶ月で、世界はこんなに変わるのか。いや、変わらない。断言してみせる。
 大地は野原で埋め尽くされて、地平線のかなたまでもが淡い緑色。下まで透き通った湖。転々と赤や黄色の花が咲いていて、立派な木々らがどっしりと構えていた。数ヶ月前までは、たしかにそこはコンクリとドブとビルだったはずだ。世界の変化と喪失。彼はそういった。たしかにそのとおりだけれど、ここまでいくと、もう別世界として認識せざるをえないような気がした。
「これはどういうことかしら」
 困った口調で、すこし涙ぐみながら、少年にたずねた。はだしで踏む大地の感触や流れる青い匂いが、どうしてもわたしの中の何かを思い出させるのだ。青色の少年は、満足げに、うなずいた。
「そういうことさ」
 わたしはその言葉を聞いて、うなずきかえした。わたしは走り出す。はだしで大地を蹴る。風の音も匂いも感触も、気持ちがいい。晴れた青空。白い雲。とっても、ひどく、ノスタルジック。わたしは走りながら涙を流す。だらだらと、汗と混じる。心地いい。心地いい!
 *
「……という、夢を見たのよ」
「なんだ、その夢は」
 弟は首をかしげて、理解できないといった顔をした。夢を見た本人のわたしですら理解できないのだから当然だ。冷めかけたコーヒーに、むやみに砂糖などいれたりしてみながら、くすりと笑った。
「あんな変な夢、久し振りだったわ。子供のころは、よくわかんない夢、よく見たものだけど」
「おれも夢は見るけど、子供のころみたいな印象的な夢は見ないな。何より記憶に残ってるのは、そうだな、熱を出したとき、後ろで流れてる民俗音楽っぽい曲はスローモーションなのに、壁画みたいな絵が高速で回転しているやつだったのかな。あれは狂ってるって感じが、しみじみとしたよ」
「狂ってる感じがしみじみ、ってどんなよ。よくわからないわ」
「感覚的なものだからしょうがない」
「それもそうね」
 それきり、わたしと弟は黙ってしまった。よくあることだった。わたしと彼の話したいことは、ちょうど同じぐらいに終われて、とってもぴったりなのだ。このぴったりぐあいは、両親にも他の誰にも真似ができない、神秘的なものだと思う。ああ、そういえばいつだか、弟と恋愛について話した覚えがあった。
「姉貴は、彼氏がいないんだよな」
「そうね。今は」
「前はいたような言いかただけど、いなかったんだろう?」
「ばれたか」
「ばればれだ。いやま、おれにもいないんだけどな」
「知ってる」
「そうか。……そういえば、同性愛を許す国があっても、姉弟愛――ああ、性的な意味でな。そういうの許す国って、ないんだよな。不思議だ」
「なあに。それは誘ってるわけ?」
「馬鹿言うな。でも、たぶん姉貴が他人だったら、手を出さない自信がないな。でも姉弟だからこその感情ってことも……うーん」
 わたしはすこしだけ笑って、また沈黙した。弟は考えの幅が定まってなくて、いつだってこっちがびっくりするような話を唐突にしてきた。あの話は、姉弟をやっていてなによりびっくりした話だった。――もし、わたしと弟が他人だったら。残念ながらというべきか、少女漫画ならいろんな可能性がありえたかもしれないが、わたしと弟は戸籍でもDNAでも、どうしたって姉弟だった。感情の上ではどうか、わからないけれど。
「……姉貴」
「うん?」
「起きろよ」
 はっとした。
 *
「おはよう」
 青色の少年が、青空を背負って立っていた。というか、わたしが野原に寝転んでいた。ああ、そうだ。わたしは倒れこんだと同時に、信じられないことだが眠り込んだのだ。本ばかり読んでいたせいで、ひどく疲れていたのだろう、きっと。
「ねえ、ごめんなさい。わたし、やっぱりだめだわ。ここの世界では、やっていけないみたい」
 わたしは寝転んだまま、泣きはじめた。わたしは恥ずかしいことに、どうしたって弟が恋しかった。今ならいくらでも告白できる。わたしは、弟が好きだ。たぶん家族的な意味でも、性的な意味でも。どうしようもなく、何よりも、愛しくて恋しくて、たまらないのだ。いろんなものに申し訳ないのより、そちらの思いのほうが、途方もなく強かった。涙で青色の少年の表情は、よく見えない。
「……そうか」
 案外あっさりと少年は言った。じゃあ、と続ける。
「やはり、二人目が必要だね」
「ふたりめ?」
 青色の少年は、膝をついて、にっこり笑う。笑顔が近づく。わたしも笑うべきなのかしらと、おえつをしながら思った。けれど笑うか笑わまいか決めかねていると、少年は突然、右腕をわたしの胸に突っ込んだ。あ、あ、あ。ああ、あ。ぬるりと液体的感触。まさぐられる感触。わたしは声を上げる。あああ! あああ、あ。壊れたラジオ。ノイズ。途切れ途切れの叫び声。少年はそれでも構わない。胸の中で、ぽっきりと何かが折れる音がした。痛みが走る。わたしは声を上げ続ける。だめだめ。だめだわ、少年。痛いわ。とっても。悲しみの涙が、痛みの涙へ。ぬるり、と少年の腕が抜き出された。わたしの一本の肋骨と共に。
「今日は君の誕生日ということで、プレゼントしてあげよう。ハッピーバースデイ」
 肋骨が奇妙な動きをして、どんどん形作られていく。骨が増え、肉が増え、そしてそれは――わたしのいとしの弟に、姿を変えたのだ。頭の中で、少年の声をリピートさせる。とっても明るい青色の声で。
 ハッピーバースデイ!

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