// たおやかなる世界

「私、違う世界の人間なんだ」
 と、彼女は言った。灰色の街、雨の細い雫、色鮮やかな傘の群れ。それらをアパートの窓から見ていたときだった。熱いココアが入った二つのカップが、揺れたような気がした。読んでいた小説を置いて、わたしはまず、冷静に考える。彼女はたしか雨が嫌いだ。だから単に機嫌が悪いのかもしれない、と。そしてわたしを散々おちょくって、機嫌を直そうとしているのだ、きっと。いつものことだ。だからココアの飲んで一息つき、なるべくとげとげしく言った。
「また、嘘つく」
「嘘じゃないよ、今日こそ」
「今日こそって」
 ふざけるのはやめて、と言おうとした。が、つい止まってしまう。顔を上げると、微笑んだ彼女がいたのだ。けれど瞳は真剣で、うっかり、すべてを信じ込みそうになった。視線を逸らす。彼女の言うことはどんな突拍子のないことでも、なんだって真実になりそうで、怖かった。
「どうせ、わたしと次元が違うとか言いたんでしょ。もう騙されないから!」
「ううん、本当に、違う世界の人間」
「わたしだって、もう子どもじゃないのよ」
「わかってる。だからじゃない。あなたも私も子どもじゃないから、こんな突拍子もないこと言ってるんだよ」
 いつもだったら、ふざけあって終わるはずのやりとりが、いやに重苦しかった。そして息苦しい。ぱっと喉を手で押さえる。すると彼女は、美しい笑い声を小さく立てた。彼女は美人と形容される人間ではないが、笑い声は誰よりも美しい人だ。
「なんで笑う」
「知らなかっただろうけど、あなた、感情が高ぶったりすると喉を押さえる癖があるの」
 彼女は甘い口調で、わたしの名を呟いた。思わず喉から手を離す。彼女はそれをみて微笑んだ。わたしはなんとなく敗北感を感じながら、じゃあ、と訊ねた。
「昔からずっと一緒にいたのに、なんで今まで言わなかったの」
「もうそろそろ頃合だと思っただけ。きっと近々、元の世界に戻るわ、私」
 しばらく、沈黙した。わたしは少しショックを受けていた。元の世界に戻る云々というより、ここから彼女がいなくなることがだ。毎日変なことに騙されることがなくなってしまうのだ。いつもは嫌で嫌で仕方がないのに、いざとなるととても、寂しい。わたし、マゾなのかしら。わたしが黙ってココアを飲んでいると、彼女は息を吐いて言った。
「ずっと昔から、夢を見てたの。毎日、同じ夢。や、具体的にはまったく違うんだけどね。まったく違う場所だけど、まったく同じ場所で……。よくわかんないけど、とにかく大きい何かが一緒だったの。通じてたの。それで中学だったか高校だったか、ある日人間が出てきた。夢の中で人間が出たのは、それが最初で最後だった。相手は女の人で、私にちょっと似てた。見た目じゃなくて、笑い声が。それで気付いたわ。あ、この人私の身内だ、って。もしかしたら、あちらの世界の親かもしれない。それでね、彼女言ったの。もうすぐ迎えに行くから、って」
 それで、ずっと待ってるの、と彼女は言った。ぼんやりと寝起きのように呟いた。わたしは、彼女が本気であることにようやく気付いた。そして、とても悲しくなった。彼女は行ってしまうのだと思うと、胸が締め付けられた。彼女がずっと待ってる間、わたしはただ偶然一緒にいただけに過ぎないのだ。目的のない人間。隣にいたから手を握られてただけ。一人で待つのは、とても寂しいことだから。
「……ねえ、一体どんな夢だったの。どんな世界に、行っちゃうの」
「きっと突然死ぬように、突然いなくなるから大丈夫よ。あるいは、迎えが来ないかもしれないし、あっちに行けないかもしれない。だから悲しまないの」
 そう言って、彼女はすこし考えたように首を傾げてから続けた。彼女の言う世界は、とても非現実的だった。触れると溶けてしまう雪の花、小説が流れる長い大きな川、季節ごとに行われる盛大な祭り。
「雪の花は普通に見てみたいな。でも、小説が流れるって何?」
「そのままだよ、さらさらと水の代わりに小説が流れてる。同じ本は一冊もない。だからみんな本を読みたいときはそこから拾うんだ」
「どこから流れてくるの?」
「さあ。上のほうで書いては流す人がいるのかもね」
「そこだけ現実的なのね」
「あっちではこっちの非現実も現実もひっくるめて、現実なんだよ」
 それはそうだ。まったくだった。わたしはすこし笑う。
「あ、あとね、なんとなくだけど、たぶんあっちの人死なない」
「たぶん? 死なない?」
「うん、最初赤ん坊で、普通に年を取って、おじいちゃんになる。でも、そしたらまた若返って、赤ん坊になったらまた年を取り始める。そういうサイクルだと思う。あっちの世界では死が不自然なのかもしれない。1と2の差はとても小さく見えるけれど、0と1の差は果てしなく遠い。そんな感じなのかもね」
「説明、結構適当」
「だって、あっちの人間とは一人、しかも一度しか会ってないんだもん、仕方ない」
 そんな風にいろいろ話しているうちに気がつくと、彼女はぐっすりと眠っていた。冷めたココアを半分以上残したままだ。きっとまた、あの夢を見ているのだろう。もしかしたら、あの人に呼ばれてるのかもしれない。わたしはコップを片付けながら、窓の外を見た。雨はまだ止んでいない。この調子では、明日もずっと降っていそうだ。湿った空気が、部屋に染み込んでいた。
 わたしは彼女を起こさないよう、静かに夕食作りに取り掛かった。いつもどおり具のない味噌汁と、肉を炒めて野菜を添えただけの簡素な食事ができた。わたしも彼女もあんまり食べるほうじゃない。だから必然的に量も少なくなり、時間も短くなる。ただ、その時間はとても大切なものだと、今更思った。この世界は、彼女の世界のように命が永遠のものではない。だからわたし達はそれを先延ばしにするために、毎日三食を食べる。その生命維持の時間を、わたし達はずっと共有してきた。それが今度は一人になるのだ。一人で待つことの次に、それは寂しいことだ。
 ため息をつくと、彼女が突然がばっと起きた。熟睡していたと思ったので、ものすごくびっくりした。どうしたの、と震えた声で訊ねる。
「まずい、どうやら私の読みは間違えていたらしい!」
 深刻そうな表情で呟いた。そして急いで私が並べた皿の前に座った。先ほどの深刻そうな表情はどこかに吹っ飛んで、手を合わせて丁寧にいただきますを言った。わたしはわけがわからないまま、続けていただきますを言った。黙々と食べる。すこし焦げた肉が、あんまり美味しくなかった。
「ねえ、もう決めたの、帰るって」
「うん、帰れるかわかんないけど、帰れるなら帰る。しかも、どうやら帰る時間が早まったみたい。もう、今日にでも迎えに来る? 帰れる? って。よくわからないけど」
「うそ」
「ごめん」
 わたしはその言葉に、思わず泣きそうになった。彼女はいつだって、わたしの「うそ」という言葉に笑って返していた。それなのに、今日は初めて謝った。涙を必死に我慢して、何事もなかったかのようにご飯を咀嚼した。悲しいってこういうことを言うのだ。本当に悲しかった。その後は何も言わずに食べ続けた。彼女が先に食事を終え、よし、とぼやく。
「今日は一緒の布団で寝よう」
「……狭いよ」
 ぐずぐずと鼻を鳴らして、なんとかそれを言った。わたしも食べ終わり、食器を片付ける。でも彼女に気にした様子はなく、彼女の中で一緒に寝ることは決定事項のようだった。最初はひどく拒否したけれど、彼女の押しに負けて、布団二つをくっつけて寝ることにした。まだ寝るには早すぎる時間だったけれど、どうでもよかった。わたしたちは布団の中で、双子の胎児みたいに丸くなってくっつく。ふと触れ合った手をぎゅっと握った。胸が苦しかった。きっとこのままわたし達は何事もなく朝を迎え、いつもどおりの日常を送るか、彼女がいなくなって、でもわたしはいつもどおりの日常を必死に送ろうとして失敗するに違いない。わたしは胸が苦しくてたまらなかった。泣きそうになると、彼女がすべてのタイミングを知ったように、そっとわたしの唇にキスを落とした。リップの甘い匂いが、さらに胸を苦しくさせたなんて、言えない。
 朝になった。雨の音は聞こえない。わたしはぼーっと布団から抜け出す。手には彼女の手をぎゅっと握り、握られていた感覚が残っていた。感覚ばかりで布団に彼女はいなくて、どころか、部屋のどこにもいなかった。行ってしまったようだ。わたしは朝ごはんの準備をする。
 たぶんわたしは、甘かった。彼女が戻ってくることを信じていたのだ。もちろん嘘に決まってる、と胸を張ったりして。あるいはお迎えが来なかったとか、行き方がわからなかったんだ、とか言って。ただ隣にいるだけの人でいいから、わたしは彼女と一緒にいつまでも、待っていたかった。一人は、何より寂しいことだから。
 一週間経って、ようやく連絡がついた。警察からだった。彼女は自殺したらしい。持っていた携帯電話に、わたし以外の連絡先がなかったそうだ。それで熱海だか伊豆だか忘れたけれど、とにかく自殺したらしい。電話を当ててる耳がやけに熱く感じながら、そこで彼女の両親が彼女を生んですぐに死んだことを思い出した。今の両親は伯父伯母の関係で、と。だから自殺して天国の両親のところって感じかもしれない。違う世界だし、身内だし、彼女の夢とぴったりだ、とか考えた。今更どうでもよいことだったけど。
 わたしは電話を切った。無意味のような、美しいような日々と、彼女の笑い声と、彼女のキスを思い返した。どうか彼女が、幸せであるといい。喉を手で押さえる。わたしは声を抑えて、ゆっくりと泣いた。

( 0703029 ) 戻る 
inserted by FC2 system