// グッバイ!

 旅行へ行こうと提案したのは、彼からだったと思う。もしかしたらずっと前にわたしがぼやいていたのかもしれない。いずれにしろ、わたしは彼と二人きりでどこかへ行けるということで、ほんの少し、いやかなり浮かれていた。彼は妻子持ちで、わたしはピンクの明るいうららかな独身貴族だった。上司と部下という関係で、そんな関係で二人きりの旅行、つまり不倫なわけである。
 やっほーたまらんね、この幸せ具合。お祭り前の子供のような気持ちだ。たとえ日帰りの旅行であれど、わたしはたまらなく浮かれていた。熱海の旅館で一日温泉とか、卓球とか、海眺めてるだけとか、ただそれだけなのだけど。たぶんなんとなく過ごすことほど、幸せなことはない。遊ぶのだってわたしは好きだけど、好きな人と一緒にいられればいいじゃないか、そんなこと。前夜祭提案して却下されたけど。うん、幸せならばいいじゃない。不倫が幸せかどうかは、まあさておき。
「まだ不倫してるの? やめなさいよ」
 置いたところで、置き逃げはいかんよと突き返して来る人間もいるわけで。ええい、大岡越前守どうにかせんかい。両者一両損だっけ、忘れたけどそんな感じのやつ。でも脳内パラダイスなわたしに気付けるはずもなく、姉はふて腐れたと思ったのか、溜息をつきつつ言った。
「不倫なんてね、結局どっちも不幸なまんま終わるのよ」
「だいじょーび、だいじょーび。それよか今度冬の熱海旅行行くのよー。ふっへっへ、羨ましいだろ」
「あんたね!」
「大体さあ」
 一つ言っておくとわたしと姉の仲は大して良くない。っつーのに、何故こんなときにこんな電話をかけてくるのか。というわけでというわけで、彼女の弱点をぶっさしますよ。さよなら、ねーちゃん。浮かれたわたしの前では単なる障害物に過ぎんのよ!
「ねーちゃんだってさ、不倫から始まり不倫から終わってるじゃあーないか」
「だからこそよ」
 だからってなんでえ、だからってえー。意外としつこい姉は今の夫と不倫して、なんとかゴールしちゃった人間なのである。で、今現在やっぱり人間は繰り返すってわけで、夫が若い娘と不倫しちゃったもんで、離婚の話し合い中なわけです。姉妹そろって親不孝でごめんよ、とーちゃんかーちゃん。
「あんたにも、そんなこと体験してほしくないのよ」
「姉ぶらんでもいいんだよー。ってかねーちゃんみたいに体験、わたしだってする気ないもんっもんっ」
 ふーんだ、と最後に付け足した。姉は理解してないらしく、不思議そうに聞き返してきた。ああダメだ、と思った。たぶん姉とわたしは根本から違うのだ。姉は良くも悪くも女らしすぎるのだ。女らしすぎて気持ち悪い。実の姉をそこまで言うわたしもなんだけど。
「熱海旅行楽しみを最後に、別れるつもりさ。相手もたぶん別れたがってるし。ねーちゃんみたいに妻の場を奪おうとか、子供を悲しませようなんて考えないのですよ。優しいから。うんじゃーグッバイグッバイサバイバーイっと」

 そんな感じで切った。たぶん、もう二度とかかってこない。途中いくらか熱海旅行への気持ちが入ってしまったが、全部本心だった。本当はすごい苦しいし別れたくないし妻になりたいなー、なんて思わなくもない。いろんな欲望がわたしのなかで渦巻いてる。でもやっぱり彼を悲しませたくないとか、妻子さんたちだって幸せのままでいてほしいとか、思うわけです。
 わたしが諦めれば世界は平和に終わるのだ。ちょっとずるずる引きずって、一週間ぐらい目元をはらせばオーケー、さよならラララーなのだ。なんだか寂しくて、冷たい毛布をかぶって泣いた。おいおいわたし、まだ泣くときじゃないぜ。これからもっとずっと沢山泣くんだから、泣くのはやめよう。
 でもやっぱり涙は止まらなくて、仕方がないのでわたしは寝ることにした。寝たらぜーんぶリセットだ。だから今は頭の中で熱海を思い浮かべて我慢するのだ。海のさざめく音とか、潮の匂いとか、乾いた砂の音とか、彼の後姿とか。

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