// サヨナラとしか

 初めて彼女を意識したのは、たしか春の補習のときだ。僕は肘をつきながら、誰もいない教室で課題と向き合っていた。それも一番苦手な英語で、プリントにずらずら並べられた意味のわからない単語たちを眺めていた。この言葉たちに何か意味はあるのだろうか。……あるんだろうなあ。そんな調子の、それこそ意味のない自問自答を繰り返した。けれどとうとう眺めているだけにも飽きて、プリントの隅に小さな落書きを書き込みながら、ぼんやりと口ずさみ始める。
 ロンドン橋落ちた、落ちた。ロンドン橋落ちた。
 今流行りの曲はそれなりに歌えたし、好きな歌手だっていたというのに、なぜかその曲が浮かんだ。理由はなんだったろうと考えるまでもなく、幸いパッと思い出した。英語教師がつい先日、授業で教えてくれたのだ。もちろん英語の歌詞で。心のどこかでは英語及び英語教師に対して申し訳ないと思ってるらしい。だからといって、突然英語ができるようになるわけでもあるまい。
 ため息をついた。が、それは雑音にかき消された。教室の入り口の扉が開いたのだ。担任は職員室にいて、わからないことがあれば来いとだけ言っていた。他の教師は見てすらいない。ということは生徒か。僕以外に補習を受ける馬鹿がいたとは初耳だ。いや、忘れ物という可能性も否定できないか。いずれにしろ、さていったい誰だろう。
「やあ、吉田っち」
 学級委員の滝本みやだった。片手をあげて、にこやかな笑みを浮かべている。僕も片手をあげて、旧友に会ったかのように挨拶した。
「おお、そういう君はみやちぃじゃないか」
「何故にあだな」
「お前もだろ。それに俺とお前の大五郎、いや、仲じゃないか」
「面白くない」
「うるさい」
 対して仲が良いわけではないけれど、女子のなかでは親しみやすいほうだ。理由は、男らしいからだろう。口調とか見た目などの分かりやすいやつじゃなくて、性質がだ。性格は決して男らしいわけではない、むしろそこらへんのミーハーな女子より女らしい。でも根本がどうしても男をしていた。家族に男が多いのかもしれない。彼女は僕の前の席に座って、鞄から勉強道具を取り出し終わると、まじまじ僕の顔を見た。そして不思議そうに首を傾げる。
「吉やんは何、何でいるの?」
「華麗なる補習」
「あれ、そんな頭悪かったっけ」
「いや、秋に事故って一ヶ月入院したから」
「そういや、そんなこともありましたね」
 なるほど、と納得したようで大きく頷いた。そしてしばらく顔を俯けたまま停止して、僕が大丈夫か確認しようかと思ったところで、勢いよく顔を上げた。素早く鞄を探って、プリントを一枚取り出すと僕の目の前に差し出した。意図が理解できず、ちらりと彼女の顔を覗くと、にっこりと笑っていた。
「これは何でしょう、お嬢様。この私めには少々理解できません」
「よっしーがやってるプリント、授業でやった奴なんだよね。だから答え。完璧ですよ」
 貸しは作った、と言わんばかりに胸を張った。ブラもつけないぐらい薄いくせに。その綺麗にまとめられたプリントを上から下へと眺めて、一つ突っ込んだ。
「補習の意味ねーじゃないですか」
「やる気ないくせに」
「まあね」
「勉強っていうのはね、やる気のあるときにやらなきゃ意味がないのよ。興味から始まるんだから勉強ってのは。苦痛を強いてやるなんてだめよ。……という自論から、プリントを見せるの」
 そこで反論する術を僕は持っていなかった。たぶん持っているなら、僕は今ここにいない。ということで、ありがたくプリントを頂戴して延々とコピーする機械となった。その光景を面白そうに彼女は見ながら、雑誌を読むように教科書を広げていた。数学の教科書。僕の苦手科目第二位のやつだ。
「君の自論からすると、君がまさにここにいるのも、興味から始まってるのかね」
「そうだね。家でもできるのだけど、家だと他に興味が移ってしまうからだめなんだ。だから学校と言う興味が一つにしか持てない場所に来るのよ」
「部活とかは」
「私入ってないの。ああいうの苦手だから」
「分かる気がするよ」
 初めて滝本と長く話した。その後僕らは黙って勉強を続けた。僕が彼女のように考えるならば、学校に来なければよかったと思う。勉強以上に相手に興味が湧いて仕方がないからだ。
 次に彼女を意識したのは、夏の授業中だ。席替えで、僕の斜め前が滝本になった日だと思う。その景色がやけに新鮮に思えて、授業に耳を傾けることなく、じっと視覚に意識を集中させていた。そして気がつくと、滝本が視界の真ん中にいる。汗で額に張り付いた、切り揃えられた前髪とか、黒板とノートを交互に見る黒い瞳とか、それに連動する白く細い首とか。そして、シャツに白く浮かぶ下着のラインとか。すべてが僕の興味をひいた。そこで初めて鈍感な僕は、こんなに滝本のことが好きだったのかと思った。そこで滝本が振り返ったので、僕は慌てて教科書で顔を隠した。彼女はそんな僕をみて、すこし笑った。僕もすこしだけ笑ってやった。幸せな光景とは、きっとこういう感じなんだろうなと思った。小さな無言のやりとりは、偽りの多い会話よりも真実味溢れている。
「引越しするの」
「すごいありがちな展開だよね」
「わたしもそう思う」
 彼女は校舎の裏側に僕を呼び出し、告白をするわけでもなく、ただ淡々と引越しの予定を伝えた。僕も頷くだけだ。何故なら僕らは恋人同士ではないからだ。もしかしたら両思いなのかもしれないけれど、結局イフにしか過ぎなくて、訊ねる勇気もない。
「ねえ、もっとありがちになってよ」
 彼女はつまらなそうに笑いながら、言った。どうやら泣いているのを我慢してるようで、笑う声が震え、目元がうるんでいた。ああ、なんてわかりやすいんだろう。僕らは訊ねなくったって、充分、意志を通ずることができる。だってまだ僕らは子どもだから。
「うん、すきだ」
 僕は無表情に言った。実際は、もしかしたら、顔が真赤になっていたかもしれない。彼女は嬉しそうに微笑んだ。涙をぽろっとこぼしながら「みぃ、とぅ」と、授業中の良い発音はどこかへ消えてしまったようにつたない言葉をもらす。僕らが子どもだからこそできたことだ、これは。そう僕は思うのだけど、大人でないから僕らはこのままさよならだ。大人だったら、僕は彼女の痩せた体を包むことが出来たのかもしれないのに。しょうがないから、僕らはずっと告白ごっこを続けていた。子どもの思い出として、いつまでも頭の中に残るように。ああ、でも不思議だ。好きの言葉がサヨナラにしか聞こえない。

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