// 我涙する、故に風あり

 風が涙をさらっていった。空気に溶け、わたしの涙は消え入った。そうやって風はいつだって、わたしの大切なものをさらっていく。追いきれないほどの一瞬を、さらわれたものの感触だけを残して。今日は、大切な人を奪われてしまった。
 細長い煙突から立ち上がる白い煙が、細く空を割った。けれどしっかりとした境界線にもならないうちに、それは風に揺らいで消え行く。掴めるものなら掴んでやりたかった。それで、わたしの口の中に収めてやる。咀嚼して飲み込んで、わたしと一心同体になるのだ。素敵な想像だった。でも、できるはずがなかった。
「やればよかったじゃないか」
 風が嘲いながら、言った。低い声だった。具現化せず、ただわたしの周りのくるくる踊っていた。わたしは手で払いながら返す。
「できるわけないでしょ」
 自分が出来るからと自慢してるのかと、瞬間わたしは嫉妬にかられた。口には出さなかったが、風はわたしの全てを理解しきったようにまた笑った。唇を噛締めて、睨んでやる。
「そうさな、その代わり俺が食べてしまうんだから」
 拳を作って殴ろうとした。が、通り抜ける。お前は馬鹿かとまた風は笑った。奴の笑顔は好きじゃなかった。わたしも無理矢理笑みを作って笑う。目は笑えなかった。
「彼は美味しかった?」
「不味かった」
 そう、と口の中で呟いた。その様子を風はつまらなそうに頭上からみて、また言った。
「やればよかったのに」
「だからできないって言ってるじゃない。あんたみたいな化け物じゃないんだから」
「俺の声が届くところで、おまえも化け物だよ。まあ、いいや。とにかくおまえは可能だったのにやらなかった。奴が死んだところですぐに解体して食べてしまえば良かったのに。お前はそれをしなかった。たとえ一心同体であろうと、奴の体が醜く崩れ、また自らの口の中で咀嚼してさらに崩れ、形がなくなることを恐れた。美しいままの奴でいることを望んでしまった。お前はいつだってそうだ。行動すればできたものを後悔して、でも自分のせいにするのは癪に障るから俺になすりつける。俺はなんにもできないから、ひたすら罵るだけでいい。お前なんか死んでしまえ、お前がいるせいで、お前がいなかったら、なぜお前が残っている、その他諸々。俺、全部覚えてるよ、お前の悪口。だって俺の言葉が届くのはお前しかいないし、お前の言葉以外何にも届かないんだもの。どんな酷いこと言われても、愛しいとしか思うしかないじゃないか! ひどい神様だな。でも恨んでやらない。俺を生んだのは神様なのかわからないし、神様が本当に酷いかもわからないから。ただ俺が知るのは、お前と醜かったり美しかったりする世界だけだ。だから俺はお前も世界もどんなに酷く扱おうと愛すよ。あい、らぶ、ゆー」
 早口にぺらぺらそういうと、風は一つためいきをついた。周囲に大きい風が舞い上がる。何人かが悲鳴をあげた。わたしはじろり、と睨んでやる。その大きい瞳が俺に憎ったらしく上目遣いに睨むのも、大好きだと平然と言ってのけた。わたしは、俯く。目を細め、涙をこぼした。ハンカチで拭き取る気にもなれない。風がしかたねえなあ、とだるそうに舞った。
「お前の涙を吹き飛ばすんのも、十六年続いた俺の仕事だからなあ。お前泣き虫だから、これからも続くんだろうなあ」
 めんどうくせえ、と風は笑った。その笑顔が、空の太陽と重なった。

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