// 少女は円周率と夢を見る

 ライラが死のうと決心したのは、そう遠い日のことじゃない。つい先日の、祖父の葬式を迎えた日のことだ。ライラは黒いワンピースを着て、祖父の顔だけをじっと見ていた。親戚達のざわめきを遮るように、あるいはその祖父の表情を目に焼き付けるように、ただただ見つめていた。顔をそむけた瞬間涙がこぼれそうだったのもあるだろう。けれど、なにより、その空間が耐えられなかった。愛しい祖父が邪険に扱われている、そこが。
 祖父はライラをこの上なく愛していた。また、ライラも祖父をひどく愛していた。両親はまだ存命だし、嫌いだったわけじゃない。でも祖父には何らかの、自分とよく似たものを感じ取ったのだ。表面的なものじゃない。むしろライラと祖父はまったく似ていなかった。ライラの瞳はぱっちりとしていたけれど、祖父の瞳はいつでも眠そうだった。ライラの髪は美しい長い黒髪だったけれど、祖父の髪は数えられそうなほどしかない、短い白髪をしていた。身内ですら、ライラは美しいが祖父は醜いと評したぐらいだ。だからこそ、なおさら、中身のそれに反応したのかもしれない。そういえば、祖父にひとつだけ不思議なことがあった。
 ライラがまだ小さかったころで、嵐の夜のことだ。雨風がごおごおと獣のようにうなっていた。ライラの家では突然明りが消えてしまっては困るから、とロウソクに火を灯していた。それがなんだか誕生日パーティーのようで、ライラは面白がっていた。けれどふと祖父の顔を思い出すと、不安が突然よぎった。ライラの目からすれば、祖父の家は築百年はしてるんじゃないかというぐらい、オンボロだったのだ。あの家が、こんな激しい嵐に耐えられるのだろうか。ライラはそう思うと、居たたまれなくなり、電話へと駆け出した。もう覚えてしまった電話番号を、じーごろじーごろ回す。回し終わったころには、遠くで雷の音が聞こえた。電話はすぐには繋がらない。ライラはあまりの不安に耐え切れず、ふいに叫びだしたくなる。ああ、神様! どうぞおじいちゃまが無事でありますように! そこで小さな音がして、ようやく電話は繋がった。その頃にはまだ生きていた祖母が電話に出た。誰にでも敬語を使い、はきはきとした口調を崩さなかった。それは死ぬまで守られた。ただ、それはこの電話の数年後のことになるのだけれど。
「もしもし、もしもし」
「どうしたんですか、ライラさん」
「おばあちゃま、そちらの家は大丈夫かしら。ああ、わたし、とっても心配なの」
「ライラさんは優しい人ですね、心配性でもあります。こちらは大丈夫です、家は壊れていませんよ」
「それならいいの。いいのだけど、おじいちゃまは大丈夫かしら」
「あの人なら、まだ天気の良かった朝方に出かけましたよ。ライラに会いに行くとだけ言っていました。まさか、まだそちらに着いていないのでしょうか」
 ライラの息は、止まりそうになった。眩暈もする。ライラは祖母にお礼を言って、ゆっくりと受話器を下ろした。自分がどうするべきなのか、ライラにはさっぱりわからなかった。心配して心配して泣いていればいいのか、それとも祖父を迎えに行けばいいのか、とにかく両親にこのことを伝えるべきなのか。ライラは迷いながらも、玄関の扉の前に走った。本物のように恐ろしいライオンの装飾が施されたそれは、ライラはまったく好きではなかった。どうせならウサギさんが良かったわ、といつも思っていたぐらいだ。けれど今日はそんなことすら考えられないぐらい、とにかく扉が開いてほしかった。そしてずぶぬれになった祖父が、困った笑顔でそこにいるのを望んだ。けれどなかなか来ないのでライラは座り込み、とうとう泣き始めてしまった。雨の打つ音と風の吹き荒ぶ音が響く廊下と、遠くでぽつんと灯っているろうそくの火と、スリッパ越しの冷たい床の感触が、すごく寂しかったのだ。今この世界に、こんな寂しい光景はきっとないと、ライラは確信していた。
 しばらく、ライラは体を丸めて座っていたが、とうとう足がつらくなったので寝転んでしまった。寒かったのだけれど、祖父が来るまでの我慢だと自分に言いつけた。さんてんいちよんいちごおきゅう、にいろくごおさんごお、にいさんはちよんろく。ライラは以前、数学教師であった祖父に教えてもらった円周率を口ずさむ。羊を数えていては寝てしまうし、変なことをは考えてられない。だから円周率にしておいた。ライラは記憶力がいいほうだったけれど、覚えたのはそのときよりさらに幼いころだったので数を重ねるにつれ、あやふやになってきた。なんとか思い出せた百十二桁めで、ぴたりと止まってしまう。なんだったかしら、とライラは思い出そうとするけれど、さっぱり浮かんでこない。また最初から数えなおしても、どうやってもそこで止まってしまう。ずっと思い出そうとしていると、眠くなってくる。いつもならもう、ライラはとっくに寝ている時間なのだから当たり前だ。夢と現実の境がつかなくなった頃、ライラの耳に大きな音が届いた。たしかにそれは、聴きなれた扉の錠が外される音だ。後ろの雨風の音も近くなっている。
「ねえ、おじいちゃま、百十二桁めの次はなんだったかしら」
 ライラは寝ぼけた頭で訊ねると、相手は頷いて優しい声音で答えた。ぼんやりとした影が動く。ライラは今でもその時のことはよく覚えてるのだけど、どうしてもなんて答えてくれたのか覚えていなかった。でも、結局朝になると誰もいなかったから、あれが祖父なのかどうかはわからない。両親に聞いても、そんな人は現れなかったという。祖父自身に聞いても、知らないと首を振る。途中嵐で諦めて、家に帰ってしまったという。けれどずっと、ライラは祖父であると信じていた。どうしても祖父以外、考えられなかったのだ。でも、それなら何故祖父は、あれを否定したのだろうか。それだけはずっと分からなかった。
 祖父の家でミントティーを飲みながら、ライラはそんなことを思い出した。ライラの中に祖父の思い出は多くあるけど、あれだけはいやに印象的だった。いつも気まぐれながらも、何らかの秩序を持って行動していた祖父が、初めて無秩序になった、そんな気がしたのだ。いや、そもそもライラ以外の人間からしたら、いつだって無秩序極まりない非常識な人間なのだろう。だからこそなのだろうか、とライラは考えた。葬式に、誰一人として訪れなかったのは。涙の匂いはなく、鼻をすする音もなく、嫌な顔だけした身内の顔ばかり。ライラが棺の前で泣いていると、わざとらしく驚いたような顔をする。ライラには、それが耐えられなかった。形ばかりって、こういうことを言うんだわ。たとえ綺麗な花に囲まれていても、祖父は決して居心地良くないだろう。そう思うとライラはたまらなく悲しくなって、また泣き始め、怪訝な目で見られてしまうのだ。
 ライラは、いまだその家に残る祖父の匂いを感じながら、無色透明の液体が入った小瓶を揺らした。毒薬だった。祖父の葬式の帰り道、怪しい露天商が売っていたものだ。たとえこれが偽物だとしても、それならそれでいい、とライラは思っていた。いっそ死ぬのは諦めて、しぶしぶながらも生きていこう。蓋を開けて、ゆっくりと冷めたミントティーに毒を注いだ。どれだけ入れたら死ねるのだろう、いえ、死ぬならもったいぶってる意味がない。ライラは小瓶を逆さまに向ける。うっかりティーカップから紅茶が溢れてしまうほど、意外とその液体の量は多かった。死ぬのなら、そんなこと関係ないだろうか。ああ、でも、祖母のお気に入りだったカーペットを汚すにはあまりにも、悲しいことだ。ライラは迷いながらもテーブルにゆっくり広がる毒のミントティーを、タオルで拭き取った。白かったそれは、見事に腐った果実のような色になる。やはりこれは毒だったのだ、とライラは思った。また、これをずっと見ていたら死ぬ勇気がどこかへ溶けて消えてしまう、とも。ライラはティーカップをつかんで、思い切り中身を飲み乾した。勇気だとかそんな尊大なものではなく、ただ、恐怖を無理矢理押し付けただけにすぎない行動だった。祖父という存在がいなければ、ライラはきっと毒入りのミントティーを飲まなかっただろう。いや、その前に死すら決意しなかったろうに。
 ライラの頭の中で、がんがんと音が鳴り響いた。オーケストラを耳元で聴いているような、重低音が脳を支配する。叫びだしたくなるけれど、どうしたって声が出てこない。これが死なんだ、とライラは脳じゃないどこかで冷静に考えた。きっと死ぬということは、この極限の自分すらも消え入るということなのだ。ライラはとても恐ろしく感じた。けれどいつまで経っても、その自分が消えることはなかった。むしろどこか気だるい感覚を残して、ゆっくりと全身の自分が戻ってくるように感じる。それは、ライラが授業中にうっかり寝てしまって目を覚ますときのような、そんな感覚とよく似ていた。じゃあ、起きなきゃいけない、とライラは死んだことを忘れて、むっくりと上半身を起こした。
「おはよう、ライラ」
 目の前には、ミントティーを飲んでいる祖父がいた。場所は眠りに落ちる前の、祖父の家のリビングだ。それこそライラは、夢だと思った。死んだことをやっぱり忘れて、そう考えた。落ち着こうと考え、おはよう、と返しながら目の前に置いてあったミントティーを飲んだ。そこで、自分がこれを飲んで自殺を図ったことを思い出す。だが、目の前に揺らぐ現実のせいで、自殺どころか祖父の死んだことすら夢だったのではないだろうか、と思ってしまった。
「ねえ、おじいちゃま、あれはやはり夢だったのかしら」
「いいや、そんなことないよ。君がここにいるのも、そしてそれ以前に経験したことも、すべて現実だよ。迷うことなんてありはしない、すべてがね」
「嘘だわ。じゃあ、一体これはどんな幻なの、わたし、まったくわからないわ」
「私はまぼろしなんかじゃないよ、本物だ」
 ライラは、夢に決まってる、幻だわ、と自分に言いつけたが、どうしても目の前の祖父を見て胸が苦しくなった。ティーカップを持つしわの入った手も、優しく自分を見る瞳も、曲がった鼻も、若草色のカーディガンも、すべて幼いころからずうっと自らの愛してきた祖父に、間違いなかった。けれど、そのすべてがうっすらとしていて、後ろの祖父母が買った奇妙な家具たちが薄らいで見えた。ライラは目尻に涙を溜めながら、呟いた。
「おじいちゃま、本物なのね。でも、やっぱり死んでしまっているんだわ」
「そうだ。けれど、最後に何の未練も残させないために、神様があることを二つさせてくださるんだ。だから私はここにいる」
「一体、死んでる人間に何ができるっていうんです」
「うん、そうだ、本来ならとても限定されているのだけれどね。一つは、生きている人間一人だけに、会わせてくれるのだよ。今まさに、それが実現している」
 嘘だわ、とライラは今度こそ言わなかった。祖父の言うとおり、まさにこの目の前で、それが起きているのだから。けれどあまりに信じ難いことで、ライラはそっと涙を流した。
「本当はもっと、手間がかかるらしいんだがね、ライラが毒を飲んだおかげで随分楽になったらしい。皮肉なものだね」
 祖父はそっと、ライラの髪をなでながら微笑んだ。優しくではあったが、たしかに孫が自分の後を追うため自殺を図ったことを嘆いているものだ。ライラはなでていたその祖父の手を取り、ぐっと頬に押しつけた。暖かくも冷たくもない、けれどちゃんとそこに存在する。それだけでライラはたまらなく嬉しく、悲しかった。
「ああ、もう、だめなのかしら。おじいちゃまに会ったら、わたしもう、それでいい気がするの。ばかみたいなのだけど、ただおじいちゃまに会いたかっただけなんだわ。わたしったら、いつまで経っても子供なのね」
「私のことをそこまで思っていてくれて嬉しいよ、ライラ。けれどね、大丈夫だ。君はちゃんと生き返ることが出来る。幸い君が飲んだ毒は、致死量があの小瓶ぴったりだったんだよ。だからティーカップから溢れたおかげで大丈夫なんだ、安心なさい」
「まあ、本当、おじいちゃま?」
 もちろんだとも、と祖父は深い声で呟いた。ライラに嘘をついたことは、いつだってなかっただろう。ええ、ええ、その通りだわ、おじいちゃま。短い間になんらかの言葉を交わそうと、ライラは必死に頷いた。祖父は決してそんなことをする気はなかったようだけれど、やはりライラを愛おしそうに見ていた。そういえば、とライラはふと思い出したように訊ねた。
「二つめの、神様がさせてくださることって何かしら」
「ああ、そうだ、そういえばもう、時間になる」
 祖父は古い腕時計を確認しながら、カーディガンの上にコートを羽織っただけの格好で、玄関へ向かっていた。ライラは何がなんだかわからなくて、おろおろとするばかりだ。 「ねえ、おじいちゃま、何をなさるの」
「ああ、ライラもおいでなさい。きっと見ていたほうがいいだろう」
 ライラのコートはこれだったかな、と淡い桃色のコートを差し出した。いつもライラが着ていたものではあったが、デザインがところどころ違っている。おそらく、祖父のイメージがそのまま形にしたものなのだろう。ライラはそう考えて頷いた。だが、まだどこへ行くのかわからない。もしかしたら天国では、と一瞬考えてしまったが、その考えを振り切った。祖父はライラがコートを羽織るのを確認すると、笑みを浮かべながら扉を開いた。すると、突然激しい雨音と風に見舞われる。ライラは叫び声を喉元で抑えた。そして反射的に、ぱっと後ろの窓を見やる。たしかに窓のほうは穏やかな冬の午後を迎えていて、小鳥なんかも飛んでいる。
「二つめはだね、ライラ。過去へ一度だけ行けるのだよ」
 過去、とライラは復唱する。祖父と、過去と、激しい嵐の日。ライラははっとした。祖父は頷きながら、雨風のうなる扉の外を見やっている。
「もちろん、ライラの家へ行こうとした日だよ。私はあの日、本当に後悔していた。何故家まで行かなかったのだろう、と。決して何かの記念日があったとか、そんなんじゃないんだよ。けれどね、幼いライラのあの瞳が、どうにも気にかかってね」
「あの、まさか――」
「そうだ、きっと幼いライラはこの日を暗示していた、いや、ちゃんと経験したのだろう。けれどこの世界での私はまだ行動しきっていないから、君の記憶が不完全だったのだよ。だから、私がこれを行動することにより、君の記憶は完璧なものになる」
 よく見ると扉の暗闇の奥には、ライラの家があった。まだ新しかったころで、どことなく綺麗だ。そしてあの扉の裏側に、幼かったころのライラが体を丸めて祖父を待っているのだろう。
「おじいちゃま! わたしなんかの記憶なんていいんです、どうぞおばあちゃまと会ってお話したりしてください。おばあちゃま、きっと寂しがってますわ」
「大丈夫だよ、彼女はひどく強がりで会ったら怒られてしまう。だから死んで仕方なく会う、という形でもないとね。それにこれからいくらだって会えるだろう」
 ぽん、とライラの頭を軽くなでた。どんどん薄れていく祖父に悲しみを覚えながら、ライラは頷いた。これが夢だったり、まぼろしだったり、また記憶から消えてしまっても、どうかわたしの遺伝子に刻まれていますように。ライラはそう願いながら、雨風の中へ足を踏み入れた祖父についていった。たった数メートルの距離でも、体が吹き飛ばされそうなほど激しかった。ライラはこんなものに昔の自分ははしゃいでいたのか、と思うと、どことなく自己嫌悪に陥りそうだった。
「さあ、ついたよ。といっても、たかだが数メートルに過ぎないがね」
 笑いながら鍵を差し込んで、扉を開いた。重苦しく開いた中に、真正面へ長く続く廊下があった。奥が闇に包まれているせいで、永遠に続きそうに見えてしまう。そして玄関の手前で、寝転んでいる少女がいた。ライラだ。祖父が一歩家の中に足を踏み入れると、眠たそうな表情で体を上げて訊ねた。
「ねえ、おじいちゃま、百十二桁めの次はなんだったかしら」
 祖父はなんだそんなことか、と言った調子で笑いながら答えた。
「ライラ、君の好きな数字だよ。よく思い出してごらん」
「……わかったわ! おじいちゃま、あなたの名前と同じ数字ね」
「そう、正解だ」
 満足げにライラは微笑むと、緊張がとけたのかぐっすり眠ってしまった。ライラはほっとしながら、ぽろぽろと涙をこぼしてしまった。ああ、わたし、なんてことを忘れてたのかしら! きっと幼いライラさえいなければ、そう叫んでたに違いない。祖父はそんなライラの気持ちを読み取ったのか、優しく濡れた手でなでながら言った。
「しかたがない。記憶が不十分だったのは、君のせいではないよ」
「――もう二度と、こんな温かな手でなでてくれないの」
「それは私も、とても残念だ。だが、君が一生私のことを覚えてくれているだけで十分だよ」
「忘れるわけがないわ」
 そうだね、さあ、目を瞑って。祖父は赤子をあやすように優しい口調でそっとライラに言った。ライラは惜しく思いながらも、目を瞑る。さようなら、おじいちゃま。そんな呟きはもう、きっと届かなかったに違いない。
 目を覚ますと、ライラは祖父の家のリビングのテーブルでぐっすり眠っていた。空になったティーカップと小瓶だけが、目の前には置いてある。ああ、なんて夢を見たのだろう。もう一度寝たら見られるからしら、などと思いながら、上半身を思い切り伸ばした。すると、肩に掛けられていたカーディガンがするりと床に落ちてしまう。反射的に拾い上げて、ライラは気付いた。ああ、これは一生の宝物だ、と。その若草色は、これから訪れる春を予感させる色合いだった。

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