// 生まれ変わる

 風がわたしの頬を一撫でした。その風のぬるさは、人肌と触れる感触によく似ていた。幼い頃を思い返させるような、優しい懐かしさにそっと閉じていたまぶたを開く。そして一度、瞳の調子は万全であるかを確認するよう、まばたきをした。瞳は乾いていたのか、その景色を見やると涙をこぼした。本当は誰よりも、そんなはずがないことを知っていた。生理的なものなどではなく、至って感情的なものであると。
 白い雲がわたしの足元に整えられた道のように、等間隔で曲がりくねりながらも続いていた。ふわふわした感覚が頼りなく、面白かった。空は暗かったが、かわりに何故かいくつも輝く月や金平糖をぶちまけたように流れる星たちの光が、雲の道を照らしていた。雲の白さは更に際立ち、眩しいぐらいだった。遊園地、それどころか地上で見られそうにない、あまりに非現実的で美しい風景にわたしはさらに涙する。と同時に思った。わたしは帰ってきたのだ、と。古い故郷などよりも、もっともっと遠い場所であり、何より大事な場所である、ここへ。
 二度と戻ることはないだろうと思っていたのに。例え考えたことがなくても、本能的にそれを感じていたはずだ。地上の汚い空気を吐き出すように、深呼吸した。何処からかただようほんのり甘い匂いが、いやに懐かしかった。
「いかんな、実にいかん」
 童話の挿絵でしか見たことのない青い鳥が飛んでいるのを見つけたところ、低く唸るような声がした。鳥が喋ったかと驚いていると「こっちだ、こっち」と後ろから軽く肩を叩かれた。振り向くと想像していたよりも神様らしい格好で、神様らしくない若い青年がそこにはいた。ただ、青年といってもわざとらしく、長い白いひげを細い顎にたくわえている。どこまでも整っていたファンタジックが彼の登場のおかげで、随分損なわれてしまったように思える。そんなわたしのなど知ったことではないように、目を細めて怪しげにわたしを見つめていた。
「どうして、人間がこんなところに紛れてるのやら。珍しく迷い込んできたか」
「そりゃあ……死んだからじゃないでしょうか」
「死んだ! 死んだと言ったな、そこの娘!」
 彼はひどく軽快に笑った。わたしは気分を損ね、眉をしかめた。死んだときのことを覚えてるわけではないが、こんな風景を天国以外で見れるようには思えなかった。夢だとしてもこんなはっきりとした夢など、見たことがない。はてそれじゃあ、ここはどこなのだろう。聞こうにも彼は未だ腹を抱えて笑っているし。その姿があんまりにもわたしをいらつかせたので、つい彼のすねを蹴ってしまった。今度は腹でなく、すねを抱えて転がり始めた。本気で痛そうに、ひいひい言っていた。しばらくすると、ようやく痛みも笑いも収まってきたのか、一つ咳払いをして立ち上がる。
「すまないな。あんまりも久し振りに死んだなんて言葉を聞いたもんで、おかしくてな」
「……それって、どういうことですか?」
「うふふ。つまりだ、この世界に死ぬなんてナンセンスなものは既に存在しないのだよ。そんなものはとうに、死語であり失われた行為だ」
「でもわたしの周りでは、死んでいった人が何人もいました」
「ああ、そうか。君の世界ではそういうのを死んだというのだったな。ふん、それは間違っちゃいないだろうね。その世界では魂が消え行くのだから。だが、魂はあくまで、この生まれた天に帰ってくるだけだ。それもすぐに元の世界に戻るし、あんまり関係ないだろうがね」
 いまいち話が掴めなかった。つまり、とまとめようにもまとめることができない。だがここは無理矢理話をまとめて、事実を真摯に受け止めるべきなのだろう。そんなに容量があるわけではない頭をフル回転させ、ひげを指にくるくる巻きつける彼に向かって確かめるように言った。
「つまり、その、すぐに生き返れるってことなんですか?」
「生き返れる――そう、そういうことだな! だが、君ら人間の望む生き返るとはちと違うな。あくまで魂だけがリサイクルされるだけであって、記憶が延々と受け継がれるわけではない。まれに手違いで残ってしまうこともあるが、所詮“おかると”やら“電波ゆんゆん”などと言われて笑われるだけだからな。大した問題じゃあるまい。
そもそも世界はリサイクルによって構成されてるのだよ。昔のようにいちいち下の奴らが性交したら魂を作って送って、などとしていたら間に合わないのだよ。作ったら作ったで中絶をして、すぐにこちらへ返してきやがる! ……それを下の世界ではクーリングオフ、とか言うそうだが。こちらじゃそんなことをされても困るだけなのだよ!
そこで、だ。悩んだ神らが会議した結果、作った魂を無駄にしまいとリサイクルするに至ったわけだ。ええと、幾千年前のことだったかな。まあいい。魂を綺麗に磨いて、記憶だけを取り除きすぐに下へ送る! それだけで仕事が途端に楽になってだね」
「ああ、もういいです。もういいです。充分わかりましたから」
 いつまでも続きそうな長話に、手を振って遮った。一瞬つまらなそうな表情を見せたが、すぐに消えうせて「月や星なんかもリサイクルされてるのだよ。奴ら、意外とああ見えて面倒臭がりでな」と違うことを話し始めた。なるほど、だから月が複数ここにあったのかと納得しながらも、それも首を振って遮る。が、彼の口は止まるところを知らない。
「ここの道も下は天国地獄へ続く道だったんだけれど、みんな魂のリサイクルに回したら天国地獄だんれもいなくなってしまってな。今じゃ暇をもてあました神様が散歩しに来るぐらいだ。わたしみたいな」
「だから、もういいですって。ところで、わたしもすぐに下の世界へ戻ることになるんですか?」
 彼は威厳たっぷりに、こっくりと頷いた。
「無論」
「そんな! わたし今ようやく思い出したんです。死んだときのことはやっぱり覚えてませんが、とても幸せだったんです。結婚式を一週間前に控えていて、素敵な恋人とそれを応援してくれた大事な親友がいたんです。お願いしますから、どうかわたしを生き返らせてください。どうぞ幸せな記憶をそのままに、お願いします」
「しかしなぁ、規則と言うものがあってだね」
「というか、いちいち記憶を取り除いて下へ送るなんて面倒臭くないですか? それならいっそ、永遠に人間を生かせておいたほうが楽じゃないですか! それなのにどうして――」
「に、人間とは神と違って寿命があることでなあ……ううう、ええい、うるさい! うるさい! こんなにうるさい女、とっとと下へ送り返してやる。が、神である私に楯突いた度胸を認めてその恋人と親友とやらに会わせてやる。さあ、とっとと行ってしまえ」
 ふん、とつまらなそうに鼻を鳴らして雲でできた階段らしいところを指差した。下を向いた矢印の形をした看板があり、そこには漢字で下界と書いてあった。わたしは喜んで、だがこの場から去るのが少し惜しく思いながら彼にお礼を言ってその階段を駆け下りた。勢いよく階段を下りていくと、途中突然階段がなくなっていることに気付いた。が、その頃にはもう遅く、既に足を踏み外していた瞬間だった。ひい、と叫び声を飲み込んで重力に逆らえるはずもなく落下していった。
 さあ、もうそろそろ元の体に戻ってるかしら。でももしかしたらお別れを告げた途端、すぐにまた死んでしまうかもしれない。ならばなんと話そう。二人とも今まで有難う、さようなら。ううん、シンプルでそれが一番美しいかもしれない。わたしはわくわくしながら、目をぱっと開いた。
「まあ、目を覚ましたわ!」
 親友の驚いた声がした。そうよ、わたし、生き返ったの。蘇ったのよ! が、やはり死んでいた体のせいか上手く喋れない。体も満足に動かせないし。が、彼女の嬉しそうな笑みを見れただけよかった。ひょい、とわたしの顔を彼が覗いた。
「おお、本当だ。なんて可愛らしい瞳だろう」
 いやだわ、この子がいる前で恥ずかしい。ほう、と頬を染めようとすると彼が続けて頷きながら言った。
「君にそっくりだな、このぱっちりとした瞳」
「いやだわ、恥ずかしい。でも鼻はあなたによく似てるわ。口元は、わたしたち両方かしら」
「そのようだ」
 嫌な予感がした。この会話で嫌な予感を感じない人間など、いやしないだろう。今までの過程を知る、人間ならば。わたしはドキドキと胸を高鳴らせた。彼女がわたしの体をたやすく持ち上げた。小さい手足の感覚。瞳をひょいと鏡のほうへ向けた。ああ、そこには、彼と彼女の愛の結晶であろう、彼女に抱かれた赤ん坊の姿が目に入った――。
 そこではっと思い出す。彼と彼女が男女の関係にあることを知り、やけ酒し、事故を起こして死んでしまったことを。ああ、ああ。ついにやり直せるときをわたしは逃してしまったのか。わたしは泣き叫んで後悔した。
「あらあら、どうしたのかしら。おー、よしよし」
「おねしょかな、おっぱいかな、よしよしー」
 どうやらあの神様とやらに、してやられたようであった。きっと天界では、こんなことを言ってるに違いない。
「ふむ、うるさい女ではあったが、これで近いうちあの三人の魂のリサイクルが決まったな。あの女が十代後半ぐらいに差し掛かり、前世の浮気をいつまでも引きずってあの両親を殺し、自らも目標を達成したので己の手で死ぬ。よくあるパターンだが、まあこんなもんだろう。さて、また人が迷い込んでこないかね」


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