// 卵の行方

 耳が痛くなるぐらい、しんとした暗いリビングで、わたしは卵をひとつ転がした。テーブルの上を不器用に転がって、不安定に動き回る。最後にいくらかの回転を終えて、停止したところでまた手に取った。真っ白な、楕円形のそれは、ひんやりとしていた。それはたしかに、いつの日か生きていて、死んだものだ。つまりこれは、ひとつの死体だ。
 母の腹から生み出されて、いくらかの夢を抱いている数時間のうちに、人間にすべてを奪われた命。そして同志たちと一緒に嘆きながら死にゆき、死体はすぐに葬り去られることなく、一ダースの透明なパックに詰め込まれる。次は誰かに買われて調理されて、腹の中へと液状化して押し込まれる。そこでようやく、死が完了するのだろう。ひとつめの墓は、生まれてずっと寄り添ってきた白い殻。ふたつめの墓は、同志たちとまとめられた透明なパック。みっつめの墓は、知らない人間の胃の中。たぶん一番身近な、何より短い儚い美しい死だと、わたしは思う。
「朝方に、何やら怪しいことをしているね」
 ぱちりと電気がつく音がして、闇と沈黙が遮られた。そこでわたしはようやく、これは夢ではなかったのだと気付いた。あまりに長くそんな空間にいたものだから、境があやふやになってしまったのだ。やっぱり、わたしはまだ引きずっている。いろんなことを引きずりすぎて、頭も胸も足も、すべて重苦しくて投げ出してしまいたかった。そうしたら、すぐさま走り出せるのに。走って逃げ出した気分になれるのに。まだだめな頭をしているなと思いながら、気だるく口を開いた。
「早く起きすぎてしまったの。だからめずらしく朝ごはんでも作ろうと思って。それで、卵料理にしようとは決めたのだけど、その後が決まらないの。何がいいかしら」
「オムライスがいいな」
「ひどく面倒ね。それに、オムライスは朝ごはんじゃないでしょう」
 わたしの言葉にゆっくりと彼は首を傾げて、不思議そうな瞳を見せた。オムライスが朝ごはんで、何がいけないのだろう。そう言いたげな、ゆれる瞳。深いブルーの色をしてる。たとえそれがカラーコンタクトでも、わたしには充分美しいと思わせたし、胸を苦しくさせた。そんな張本人は無邪気に、ぱっと名案を思いついたようで、子供っぽい笑みを浮かべて言った。
「じゃあご飯と卵と、ケチャップだけでいい。他の具はなにもいらないから」
「まあまあの妥協ね。いいよ、作ってくる」
 名残惜しいことに、卵とはここでお別れのようだった。これはさっきの考え方だと、死化粧にでもなるのだろうか。そんなことを考えながら、ぼんやりする頭でケチャップご飯を作った。次はよっつの死体の包まれた殻を割っていく作業だ。ひとつめの卵を取ったところで、手がぴたり、と止まってしまう。そして、これは作業なんかじゃない、と思った。彼がすぐ近くにいたのに、もしかしたら口に出してたかもしれない。まだわたしはこの時点で、中身が知りようがないのだ。
 そう、もしかした、もしかしたらだ。この中身は死体じゃないかもしれない。生きた可愛らしいひよこが、ぴよぴよ鳴きながら皿に着地するかもしれない。考えただけで、何かが胸にこみ上げてきた。もしかしたら! とんでもなく幸せな、仮定だった。有り得るはずがないことだと知りながら、わたしは幻想に希望を抱いている。このまま卵を割らずにいたほうが幸せなんじゃないだろうか。たとえば中身が本当にひよこだとしても、わたしはつい怒って、卵のパックを買ったスーパーに問い合わせてしまうかもしれない。普通の黄味と白身だとしても、その希望が分子レベルに砕けちるだろう。ああ、でも、それこそ本当にあるべきわたしの姿だ。卵ごときに希望を持ち合わせる女なんて、いらないのだ。
 わたしは卵を割って、皿に黄味と白身を浮かばせた。美しい平凡なその情景にわたしは胸打たれる。ああ、わたしも、わたしもこうしたかった。心底そう思った。卵の中身を、知りたかった。そっと、何もなくなった腹を撫でた。卵の中身は青かったのかしら。ねえ、わたしは、とっても知りたかったわ。いくらだって後悔できる。すべての卵を割り終えて、ため息をついた。なくなった卵の行方を、わたしは知らない。


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