// うたごえ

 目が覚めると、すでに窓の外は真っ暗だった。軽い昼寝のはずが、随分長いものとなってしまったようだ。床に何も敷かず、シーツに包まれていただけだったので体の節々が痛む。上半身を起こして、しばらくぼうっとしていて気付く。隣で一緒に寝ていたはずの彼女がいなかったのだ。先に起きて優雅にベッドで寝ているのだろうか。けれど母親のように甘い彼女に、そんなことは考えられない。ぼくはシーツをひきずりながら、寝ていた部屋から抜け出した。素足での床は、とても冷たい。
 キッチンのほうから、彼女の口ずさむ声が聞こえてきた。よろよろと辿り着いて、後姿を確認する。どうやら何か料理してるらしい。ついでに飾ってる時計を見やると、もう十二時をまわっていた。暗くなるわけだと思いながら、椅子に座ってテーブルに伏せこんだ。そこでようやく、椅子を引いた音で気付いた彼女は唄を止めて振り返る。
「おはよう」
「おはよう。何を作ってるのだろう」
「砂糖漬けよ。お隣のおばあちゃんからもらったレモンでね。だから、今のわたしはカンディトーレ」
「なんだって?」
「砂糖漬け機のこと」
 なるほど彼女の横を見ると、レモンの山と砂糖やハチミツが積まれていた。隣の家は、たしか老後の娯楽でいろいろなフルーツを育てていたことを記憶している。だがそれだけでなく、テーブルの上には野菜や洋服、そして石が置かれていた。ぼくは首を傾げる。
「野菜と洋服までは理解できるけれど、この石はなんだろう」
「ほら、石を集めるのが趣味のおじさんがいたでしょう。あの人のちょっとしたお手伝いをしたら、くださったの。ゲルマニウム、だったのかな。他の野菜や洋服は、他の人たちからもらったの」
 その青みがかった灰白色の石を眺めながら、すこし笑った。
「きみにはパトロンがたくさんだね」
「ええ、そうよ、うらやましいでしょう」
 彼女は笑った。本当にそれだけで生活ができそうだった。なんというか、ものをあげたくなる人というよりも、生きていてほしいと思わせる人なのだろう。けれど実際に与えるだけで放っておいたら、彼女はそのまま死んでしまうような気がする。寂しいからとかじゃなくて、もっと単純に、動かないとだめなのだ。動かないと生きていてほしいとも思わせないし、彼女も生きていけない。だから今は、これ以上になく、バランスが良いのだろう。
「カプチーノでも飲む? ハートマークか、らせんでも描きましょうか」
「いいや、いいよ。カンディトーレを続けてくれ」
「了解」
 まだ眠気がすこし残っていて、ぼくはふらふらする。目の前には深夜に今さっきまで眠りこけていた彼女が料理していて、ぼくはそれを後ろから見ている。とても幸せな光景だ。とても哀しいときにこの光景を思い出したら、ぼくはきっと泣いてしまう。今だって想像すれば、きっと涙が溢れてくる。でも目を瞑って、その幸せから逃げた。不幸せは間違いなく不幸なのだけど、幸せも不安に満ち溢れていて不幸に違いない。終わりが見えないことは、嬉しいことほど、とても怖い。
 やっぱり何時間も寝たあとだったので、眠れなかった。ごろごろと頭の位置を決めかねていると、彼女はうたい始めた。ぼくが寝てしまったのかと思ったのだろうか。やはり心地の良い声音は、静かな空間に響き渡った。
でぃん、どん、だん、とぅ、る、ら。
りん、らん、らん、でぃん、どん、だん。
 これを唄と呼ぶべきなのか、ぼくにはわからないけれど、ぼくにとってはどんな子守唄よりも愛おしかった。ぼくは椅子から立ち上がる。彼女が顔をレモンに向けたまま、あら、と声を上げた。
「どうしたの」
「お風呂に入ってくるよ」
「そう、いってらっしゃい。今夜はきっと、眠れないでしょうから、二人でココアでも飲んで過ごしましょう」
 と、彼女はそう言った。素敵なデートのお誘いだね、とぼくは笑って返した。浴槽にはもう、お湯が張られていた。ぼくは服を脱いで、意気揚々と入る。指先からしびれる感覚がした。ずぶずぶ、と肩までつかる。キッチンから、また彼女の歌声が聞こえた。微かに聞こえるそれに耳を澄ませながら、ぼくは大きく息を吸い込んだ。音を立てて湯船に沈む。中は透明で、そこではもう彼女の声は聞こえない。そう、これでいいのだ。幸せから逃げてしまえばいいのだ。でもそんな臆病者は、さっきの彼女の唄をうたってしまう。
でぃん、どん、だん、とぅ、る、ら。
りん、らん、らん、でぃん、どん、だん。
 ぼくの歌声はうたかたに消える。お湯の中は、とても狭い。まるで、そう、母の腹の中のように。羊水に溺れる。羊水と涙が混じる。
 ぼくは、彼女のうたう唄が、聴きたい。


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