// ジレンマの彼女

 わたしが愛した人は殺人鬼で、わたしの大切な人は殺人鬼で、わたしの家族は殺人鬼で、わたしの支えは殺人鬼で、わたしの片割れは殺人鬼で、わたしの同居人は殺人鬼で、わたしの初恋は殺人鬼で、わたしの罪は殺人鬼である彼そのものだった。
 小さい部屋に二人でいるだけで、どうしようもない幸せを感じた。部屋には彼の仕事道具と、小さなキッチンと、決して料理するためでなく彼の趣味のための包丁だけがあった。趣味というのは、つまり殺人のことなのだけれど、趣味と言っていいのかよくわからない。でも好きでやっているのだから、趣味でいいのだろう。他には何にもないただ過不足なく満たされた部屋が眩暈がするほど美しく見える。ぽたん、ぽたんとキッチンの水道からもれる水の音も、この空間を作るためには必要不可欠なものとさえ思える。古い床や壁からする木材のにおいや軋む音も、じんわりとわたしたちの体に染み付いている。
 ふふ、ともれそうな笑いをこらえて、ふう、と溜息をつき新聞を開いた。昨日の新聞だ。一面には政治について、わたしにはどうでもよさそうなことが書かれている。けれどすこし視線をずらすと、まさにわたしのための記事だ、と言わんばかりの見出しに釘付けになった。『殺人鬼、未だ捕まらず』いつもならこんな感じの見出しで、政治の記事など押しのけて大きく掲載されていたのに、ここでは控えめだ。だが次の日の新聞、つまり今日の新聞を見ると今度は遠慮ないゴシックの大きな字で『連続殺人、七人目』と書かれていた。どことなく誇らしい気分がわたしの胸に湧き上がる。もちろん罪悪感も一緒に影となって現れるのだけれど。でも、そもそもわたしがしたことじゃないのだから、どちらの感情も不釣合いのように思う。だがその殺人鬼を警察に差し出すどころか、一緒に住んで犯罪に手を貸すわたしも彼の罪の一部なのだろう。ふうう、とさっきより少し長く息を吐いた。それでハサミを取り出し、二つの記事を鼻歌しながら綺麗に切り取っていった。ふふう、ともう笑いをこらえきれていなかった。すぐ隣で今は真面目に何かをしている彼に気にした様子はない。わたしは順調に切り取り、今度は液体タイプのノリをまんべんなく切り取った記事の裏に塗りつけ、大学ノートに貼り付けた。ノートの名前は『殺人鬼日記 新聞編』だ。ノートは三冊あって、他は『週刊誌編』と『ネット編』があった。週刊誌編など、もう既に三冊目に入っているから、総計すればノートは五冊存在した。ネットならばもっと色んな情報が多いのだが、繋ぐ環境がないため、たまにネットカフェに言って探す程度しか出来ないのでまだ一冊目だ。もちろんどれも嘘が多いが、むしろマスコミがどんな嘘をついているのか、そしてどんな嘘に騙されているのかと興味深くて買っていた。
 作業を一通り終えると、うんと伸びをして彼に抱きついた。むぎゅーと遠慮なく体を押し付ける。彼の細い体がすこし揺れて、笑い声がもれた。
「どうしたよ」
「なんでもないのだよ。ところで今仕事だよね? ん、違うかな」
 彼の仕事は身辺調査みたいなものなのだけれど、それを殺す人または殺した人にもやっているものだから、どうも判断がつかない。しかもファイルをいっしょくたにしてるもんで、更にわからない。特に仕事と殺人と大きな違いは見えない。写真があって、プロフィールがあって、履歴みたいなものがあるだけだ。わからなくなったりしないの、と一度彼に尋ねたことがあったが、彼はまさかと笑って言った。彼には、わたしみたいな一般人には見えないようなものが見えてるのかもしれない。あるいは単に記憶力がいいだけか。……考えすぎか。頭のいい彼のことだ、後者なのだろう。
「仕事、だけど、普段とちょっと違うかも。偶然狙ってた女の子の身辺調査を頼まれたんだよね。面白い縁だよ」
「まじ? そんなこともあるもんなんだねえ」
 感心したように頷いた。世間は狭いとか、そういう話じゃない気がする。そんなに上手くいってしまうと、その子が彼に殺されるために生まれてきたんじゃ、とさえ疑ってしまう。わたしが彼に首ったけなせいなだけだろうけれど。だって彼女は彼に会うまで、彼が調べたとおりならば平凡で幸せと呼んでもいい、順風満帆な生活を歩んでいたのだから。わたしはちらりと彼の手元の写真を覗く。思わずびっくりして、うわっとか変な声を出しそうなったのを我慢した。けれど彼はわたしの変化に気付いたらしくどうした、と訊ねた。
「やばいねえ、この子、わたしと同じ学校通ってた子だよ。つか、クラスメイト。こりゃ、今噂の殺人鬼さんに殺されるために生まれてきたとしか思えないね、うん」
「まじかあ。そりゃ可哀想だ」
 くくっと楽しそうに笑った。彼はただひたすら、殺すことだけを考えている。足がつくとかそんなことは、考えていない。本当に楽しいという感情しか抱いていない。その残虐さは彼の核に違いないだろう。肉で覆われたはずのそれは、何故か表に出てしまっている。
 少し遠い過去のこと。一度だけ見た、彼の殺人。彼の初めての殺人。気付いたときにはもう、そこには成人した男女の赤い死体が倒れてるだけだった。彼は初めてだというのに、すべてを分かりきった調子で包丁を的確に振り回した。外すことなく、ぐちゅう、とか、ごきっ、とか小さく音を立てながら男女は倒した。わたしはそれを机の下でじいっと見ていた。終わると、やはり彼はいつもどおり優しい笑顔で、終わったよと優しく告げた。わたしはそのとき何故か、泣きたくなったのを覚えている。はっと今に戻ると、ちょうど彼に話しかけたられたときだった。
「ねえ」
「ん、はい、なあに?」
「いやね、お前は僕がなんで人を殺してるかわかるかな、って」
「ええー、なんで。人殺すのが好きだから、とかそういうのじゃないの? 快楽殺人。日本ではあんまないけど、外国だとそれなりにあるんでしょ」
「ぶー」
 頬を膨らませて、わざとらしく不正解の効果音。わたしは首を傾げながら、ええー、と困った声を出した。そんなこと言っても、殺人なんてやったことがないのだからそんな気持ちは理解できない。彼のことは好きだけど。すると彼は、頷く。
「うん、まあ、そうだよね。僕と一緒にいるってこと以外、君は一般人だもの」
「お、うふふ、認めたね。そうよ、わたし一般人よ」
「なんで一般人って言われて喜ぶの? つまんない人間だねっていわれてるようなもんじゃないか?」
「何の変哲もないって、意外と幸せだよ。不幸でも幸せでもない感じ」
「うーん、それなりに納得」
 あはは、と笑いあってからわたしは訊ねる。
「んで? なんで君は人を殺すのかななななーん」
「えー、ほら、トランプとか積木とか砂の城あるじゃん。ああいうの壊すの、すっげえ楽しいの。今まで自分が頑張った軌跡をすらも削除する感じ。でもパソコンのデータとかと違って、自分の創作した腕が、自分の破壊する腕になる感覚とか。ぞくぞくーって。それをさ、人に当てはめただけだよ。今までその人たちが歩んできた人生を、すべてなかったことにすんの。人が死んじゃえば、あと残るのは記憶と物だけだよ。そんなものに何の価値もない。その人にしか価値はないんだから、その人を消せば全部全部、終わる」
 ああ、殺人鬼らしい狂った回答だ、とわたしは思った。こりゃ、警察も逮捕できないわ。七人も徹底的に調べて殺しておきながら足がつかないのは、こういう思想のせいだとも思った。その人を殺して終わらせたくせに、自らの足は残すなんてそんな酷いことはできないのだ。だから殺すときと同じぐらい、いやさらに、丁寧に痕跡を消し去るのだ。無能な警察だと嘲笑うためではなく、その人への敬意を表すため、自らのために。
「じゃあ、わたしもいつかあなたに殺されるのかしら」
「そうだねえ、昔はそう思ってたんだけど、今はもう、無理かなあ」
「ええ? なんでー?」
 びっくりしたし、びびった。なぜならわたしの人生は、彼の手によって終わらせられると今まで信じていたからだ。寿命で死ぬなんて平凡な人生は考えられない。なぜか彼もそう思っていたらしく、すごく困った声色で呟いた。
「なんか、お前を殺したら、俺も死んでしまいそうだから。心中とかじゃなくって、本当にお前の心臓を刺した瞬間、何故か俺も心臓を刺されたみたいに死にそうなの。よくわかんないけど、そう思うんだ。だから、怖くて殺せない」
 殺人鬼なのにおかしいよなあ、とほんのちょっと情けない泣きそうな声で呟いた。ああ、とわたしは思う。やはりわたしたちはどこかで繋がってるのだと。身体的な、直接的なものなんかじゃなく、脆すぎて危うすぎる精神的なもので。彼の言いたいことがよくわかった。けれど、同意することはできなかった。認めた瞬間、全てが壊れてしまうからだ。全てを壊すことは何より彼の理想であることを知っているからこそ、わたしは、言わない。ただ、黙って抱きしめた。ぎゅうっと、胸の彼の頭を押し付けた。わたしと同じシャンプーの匂いがした。これで違うシャンプーの匂いがしたら、普通の恋人同士のような痴話喧嘩になったのだろうかと考えたが、きっと違う匂いがすることはあっても違うシャンプーの匂いなんかじゃなくって、血の匂いなんだろうなと思った。わたしは想像する。鉄分の充満した赤い空間で、彼がぽつんと何かしら凶器を片手に突っ立っている姿。下には赤く濡れた死体が転がっていて、何の動きも見せないのだ。呼吸音も、鼓動も、血のめぐる音も聞こえない、凶器から血の滴る音しか、響かない空間。とても寂しい想像だった。わたしは彼の頭をもっと強く抱く。頭蓋骨の硬い感触が、鎖骨に伝わる。
「痛い」
「ごめん」
 鼻から酸素を胸いっぱいに吸った。そして口から吐き出す。きっと生暖かい吐息が降りかかって、彼は気持ち悪いだろうと思った。わたしは今、彼に何よりも伝えたいことがたくさんあった。伝えるべきではないことすら伝えたかった。きっとあのね、を口切りにどんどん口が滑っていくのだろう。
 あなたがわたしを殺すのは怖がるのは当たり前よ、これはね、決して自意識過剰なんかじゃないの、絶対的な理由があるの、いいえ、厳密に言えば絶対なんかじゃないんでしょうけど、わたしにとっては何よりかけがえのない、証明なの、存在証明、とても臭い言葉ね、でもそうとしかいいようがない、ああ、こんな遠回しにいうことなんてないのに、なぜでしょう、この過程がひどく愛しい、あなたのもどかしさがこちらにも伝わってくるのが、精神が一つになったようで面白くて楽しくて嬉しい、そう、ああ、もう、早く言わなきゃね、我慢ならないでしょうね、あなたは殺人以外に関してはとっても短気だもの、わたしそっくりよ、そういうところ、そう、つまりね、もう今言ったとおりの言葉よ、わたしとあなたは正真正銘血のつながった双子なのよ、二卵性の、双子。
 その一言がいえたら、どれだけ幸せなのか、そして苦しいのか、想像がつかなかった。想像がつくほどわたしは想像力豊かではないし、行動に移せるほど勇気に満ち溢れた美しいヒロインでもなかった。だから、わたしはずっと、彼が気付くまでこのままでいるのだ。殺人鬼に恋した、馬鹿な変わった女。でもどこか憎めないし殺せない、そんな女。
「ねえ」
「んん」
 とうに泣きそうな声などどこかへ隠し、また次の殺人について思案していたようだった。わたしは、顔をゆがめて笑った。
「愛してる」
「そう」
 彼はそっけない態度を取る。事実それぐらいにしか思ってないのだろう。わたしは知っている、彼の最上の愛情表現が殺すことであると。初めての殺人、両親を殺した時だってそうだった。すごく好きで、愛していたからこそで、でも愛し方がわからなくて苦しいのが嫌だから殺してしまう。そして彼は何度だって恋愛する。一緒にいたいなら何も言ってはいけない、でも愛してほしいなら双子だと告げる。だからきっとわたしは、いつか双子であると告げてしまうに違いない。悲しすぎる、予感だった。

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