// 山村さんと彼女とわたし

 山に囲われたこの小さな町は、ざあざあと降りしきる雨に閉じ込められていた。それは比喩でもなんでもなく、唯一外へ繋がる一本道が崖崩れのせいで、実際通れなかったのだ。
 仕方がないからショッピングの予定を潰せざるを得なくなったので隣の家の幼馴染を誘って、馴染みの駅前にある喫茶店でカプチノを味わっていた。マスターが変にこだわってるだけあって、とても美味しかった。彼女はぶつくさ、女二人でなにやってんのかしら、と文句を吐いていたので、ちょっと申し訳なく思い珍しくおごってやることにした。すると途端におもちゃを買ってもらった子供のような笑顔を見せる。あんまりに美しい純粋さがいきなり彼女の中から溢れ出してきたので、面食らってしまった。幾年も一緒に過ごした親友だというのに、未だ彼女の新しい一面が会うたびに見つかって、面白かった。それは人付き合いを面倒臭がるわたしがこんなにも長い間付き合ってる理由の一つに違いない。
 雨は止む気配を見せず、むしろ喫茶店に来たときよりも更に激しさを増しているようだった。窓の外をぼんやり眺め、踊る雨粒を見やった。学生の頃の景色と同じ、灰色の空が懐かしかった。一方の彼女は文庫本と辞書を鞄から取り出し、ついでに眼鏡をかけて、その二冊を交互に睨んでいた。どうも彼女は真剣になればなるほど、目つきが悪くなる癖があった。これが原因で恋人と別れる原因になった、と聞いたことがある。ただしプライドの高い彼女本人からではなく、また別の友人からだった。そういえば、彼女の泣き言を聞いた覚えがなかった。
 文庫本と辞書は、小学生の頃からずっと彼女がやっていることだ。知らない言葉があればすぐに辞書で調べ、マーカーを引き、また本に戻る。言葉のひとつひとつを理解したいの、と彼女は言った。真髄とまでは行かなくてもいい、でも、せめて表面上でいいから知りたい、と。真剣な表情だけれど、やはり目つきは悪かった。
「そう、そういえば」
 ちょっと彼女の悪口を思い浮かべたところだったので、どきっとした。平静を装い、どうしたの、と返事をするわたしはちゃんと上の空だった人間に見えただろうか。どうやら彼女にはそう見えたようだ。というよりも、本の方に集中したまま話しているから、わたしの格好などどうでもいいようだった。
「知ってる? 噂」
 彼女はようやく本から目を離し、顔を上げた。黒縁眼鏡が、ひどく似合わなかった。わたしの思いつく限り、ここ最近噂など聞いた覚えはない。いいえ、とかぶりを振ると、彼女はすこし冷めた紅茶を一口飲んで面白そうに言った。
「ほら、小学校の通学路にあったでしょう。ちょっと大きい洋館が」
「そういえば、あったね。山村さん、だったっけ。誰も住んでなくて荒れていたね、たしか」
「そうそう、山村さん。一応、つい最近まで山村さんと使用人が住んでたんだけどね」
 つい最近まで、ということはお亡くなりになったのだろう。わたしは見たこともない山村さんちのお婆さんを想像した。腰の曲がった、きつい目をした、しわだらけの女性がまぶたに浮かぶ。使用人の顔は、どうやっても浮かばなかった。
「それで、どうしたの? 使用人さんが山村さんを刺したとか?」
「まさか。そんな事件がこんな小さい町で起こったら、町中大騒ぎよ。普通に以前から患っていた病気死んだみたい。で、使用人もいなくなったその洋館に――いるらしいわよ」
 彼女の眼鏡がきらりと光に反射して輝いた。瞳も、すこし楽しそうに光っている。うふふ、とたまらず笑い声をこぼす彼女は、何にも知らない人から見れば可笑しな人に間違いないだろう。だがこの小さい町で少ない若者たちの一人である彼女を知らない人間はいなかった。田舎で良かったね、と心の中で呟いた。
「野良猫か、野良犬でもいるの?」
「わざとらしい。わかってるくせに。もちろん、幽霊よ。山村さん、死ぬ直前もう動けなくってね。ベルをちりんちりん、って鳴らして使用人を呼んだらしいの。そのベルの音が、何故か誰もいないはずの洋館から……って!」
 彼女は大きくふん、と鼻を鳴らした。なぜ彼女がこんなにも興奮しているのか。答えは簡単だ。幽霊やら宇宙人やら超能力者などの非現実的なものが好きだからだ。特番なんてものがやれば、リアルタイムで見て録画もする。ネットであらゆるサイトを巡る。知った知識を試してみる。そんなことをしていれば、町の若者でも一番の知名度を誇るのも納得できる。今ではある程度抑えられてる性分も、もしやこれを機にまた暴走するんじゃないだろうか、と思った。もしされたら、縁を切ることも考えなければなるまい。そら恐ろしい中学時代の彼女の行動を、一瞬ふっと思い出した。反射的に鳥肌が立った。
「幽霊、ね。もちろん野良猫か、野良犬のよね」
「もう、あんたねー。もちろん山村さんに決まってるでしょう! ああ、でも残念だわ。あの家大きな門があるのよね。閉められてるし、超えられるほど低い門じゃないから、確認しようにも入れなくって……」
 悔しげに唇を噛締める彼女に、感情移入することはできなかった。ともかく、そんな話をしていると既に時計の短針は二つ移動していた。特にマスターがカプチノと紅茶一杯ずつで粘られていることに怒ってる様子はないが、なんだか罪悪感が拭えないので彼女に言って出ることにした。まだ本を少ししか読んでいないようだったから、反対されるかしらと思ったけれど、簡単に腰を上げた。「そうね、もうそろそろ帰らないと、特番の再放送が見れなくなるし」と言ったかどうかは定かではない。二人雨の中、傘を差して帰っていたのだけれど、途中「特番に間に合わない!」と悲鳴をあげて彼女はわたしを置いて走り去ったかどうか、それも定かではない。
 それで、今なぜわたしはここにいるのか。灰色、雲、雨、傘、門――山村さんち前。まるでホラー映画のように、雨に濡れたその洋館はおどろどろしかった。一般人であるわたしですらそう感じるのだから、そういう専門の彼女が魅入られるのも無理はない、と思った。そして、入りたいという彼女の願望すら理解できてしまった。どこか、人を寄せ付ける何かが、漂っているのだ。洋館から、門から、あるいは死んだ山村さんからか。……ほら、野良猫だって、いるかもしれないし。自分自身に言い訳しながらわたしは閉まった門を離れ、裏手に周った。そこには古い木製の扉があった。と言っても、わたしの肩ぐらいしかないもので、一蹴りいれてしまえば音を立てて崩れそうなほどのものだ。一生懸命手で鍵の部分を探った。どうやら、南京錠などがかかってはいない。ちょっと引っかかった金具を外すと、案の定簡単に扉は開かれた。迷ったらいけないと思い、わたしは何も考えず敷地に足を踏み入れる。ぐっと軟らかな土の感触がした。
 と、その時。ちりいん、とこの耳にたしかに聞こえた。そう、ベルの音だ。山村さんが生前使っていたという、呼び鈴。聞いたことはないが、たしかにそれは家が軋んだからと言って出る音ではない、確かな音。その音が中から聞こえた。現状を頭の中でゆっくり整理し、ごくん、と生唾を飲み込む。手が震えたのは、初めて経験することだけれど武者震いという奴だろう。震える手を押さえ、足を進めた。  幸い一つ窓が大破されていたので、そこから侵入させてもらった。恐らく、この雨よりちょっと前に来た台風のせいだろう。思った以上に激しく、うちの家も一部壊されたぐらいだ。きっと山村さんが死んだ後に壊されたのだろう。有り難いと思った。
 中に入ると、そこは廊下らしかった。赤いカーペットが延々と続くような、暗い廊下だ。晴れの日差しが窓から降り注ぐ日ならば、もうちょっと印象が違ったかもしれない。そっと足を踏み出す。右、左、右、左。なんとなく頭の中で呟く。カーペットのやわい感触。彼女は死が近くなった頃には、既にこれを感じることは出来なかったのか。足がある喜びが、少しだけ分かった。
 ちりいん、という音が廊下に響いた。びっくりして、足を止める。もう、山村さんと初の出会い? というよりも、幽霊と初遭遇、というほうがしっくりきた。想像ぐらいなら何度もしたことはあった。けれど実際会うとなると、すこし、つらい。つらいというよりも、怖い。怖がって、幽霊となってしまった山村さんを怒らせてしまうんじゃないか、悲しませてしまうんじゃないかと思うと、つらかった。とても悲しい輪を描いていた。
「山村、さん?」
 さて、この後なんて続けようか、とわたしは考えた。ごめんなさい、初めまして、こんにちは、助けて、許して。どれもこれも、駄目だった。日本語が豊富でも、知ってなきゃ意味があるまい。返事はないので、もう一度呼びかけた。
「山村さん」
「にゃあ」
 ……山村さんは猫だったようです。もちろんすぐにはっとして、山村さん(仮)に近づいた。そこには、一匹、首元にベルをつけた黒猫がしなやかな尻尾をかすかに振って、座っていた。おお、可愛らしい猫だこと。本当に猫がいたのか、と思った。きっと山村さんのベルだと思っていた音も、この猫のベルの音だったんだろう。そう、真実なんて大抵そんなもんだ。それでも脱力感が、たまらない。
「……猫さん、わたしはもう帰るよ。疲れちゃった」
「にゃあ」
「……猫さんも、来るかい?」
 手をゆっくり上下に動かして誘うが、猫は動かなかった。やれやれ、幽霊にも猫にも振られたかと、溜息をつくと、ベルにも似た凛とした声がした。
「ごめんなさいね、うちの猫、あんまり人に懐かないの」
「え、あ、いえ?」
 思わず疑問形になりながら、声のした猫の後ろのほうを見やる。一人の人影。ぽつ、ぽつ、と廊下の先から明りが灯るのが見え、そして廊下の隅であるここまで届いたとき、その女性の姿と黒猫の姿がはっきりとした。メイド服――などというものは着ていないものの、最低限動きやすい服装を心がけてはいるようで、シンプルな格好だった。若い女性で随分整った顔立ちをしている。こんな田舎でよく埋もれているものだ、と少し感心してしまった。そんな彼女に黒猫が寄り添ったとき、はっとした。
「あ、ごめんなさい。その、山村さんの、お孫さん、とかですか?」
 慌てる。今のわたしの状況整理。侵入者、不審者、猫泥棒。おおう、なんてこったい。こりゃ、積みすぎる。両手をあげて、ホールドアップの態勢を取ろうかとも考えたが、そんなことをしたほうがさらに不審者になりそうなのでやめておいた。彼女はわたしの台詞に形の良い唇を吊り上げた。
「うふふ、いいえ。私は、そう、山村さんの使用人だったの」
 使用人。成程と納得したように頷いた。だがそれにしても若すぎるように思えた。それは普段わたしのような使用人などという言葉と一切関係ない世界に住んでいるからだろう。使用人といえば家政婦、家政婦といえば――だ。つまり一言で言えば偏見というやつだ。が、それでわたしの立場が変わることはあるまい。腰を低めにおずおずと言う。
「あ、使用人のかたでしたか……あの、その、勝手に入ってごめんなさい。悪気は、その、ゼロに等しいって言うかゼロイコールゼロでして」
「大丈夫、気にしてないから。どうせ今は私とこの子しかいないから」
 白い指が黒猫を指差す。ちょうどシッポを揺らめかしたところで、首元のベルが揺れた。ちりいん、と廊下の隅々にまで響くような綺麗な音。彼女がゆっくりを腰を下ろし、両腕を開いて胸元に黒猫を招き入れた。黒猫は一度頷き――少なくともわたしにはそう見えた――、彼女の腕を登り、胸の中へ収まった。そして彼女はまたゆっくりと立ち上がる。初対面であるわたしに対して、愛しい子でも見ているような優しい瞳でにっこりと。
「でも、もう行かなくちゃ。この子も連れて行かないと、怒られてしまうわ」
「あ、この後ご用事でも――」
「ええ、とても大事な。あなた、壊れた窓から入ったんでしょう。もう危ないからおやめなさい。正面玄関を開けてあげるから、ね」
「でも、用事が」
「それぐらいなら大丈夫」
 どこか有無を言わない口調だった。と言っても命令的などではなく、わたしを思っていってるように聞こえた。やはり老婆の使用人なる仕事をしていると、色んなところに気を使えるようになるのだろうかとわたしは考えた。ありがとうございます、とお礼をいうと彼女は嬉しそうに案内をしてくれた。
 廊下、小ホール、彼女の住ませて貰っていたという部屋、螺旋階段などを見せてもらいつつ、玄関へ辿り着いた。いずれもわたしがここへ侵入しなければ、一生見ることがなかっただろうものたちばかりだった。だが、彼女の部屋は他の部屋の豪華さとは全く縁のなさそうな、シンプルで宿屋みたいなベッドと机ばかりの部屋だった。一つ小さな小窓があったが、更に豪華さから遠のかせてるようだ。「でも、わたしはあの部屋が一番好き」と彼女は案内しながら言った。やはり、それは、自分の部屋だからですか、と訊ねると彼女は首を振った。ただ、それだけだった。
「さあ、お別れね。ここから出れば、あとは裏口から出てね。さすがに正門を開けられる勇気はないの。あれ、開くとき音がすごく響くし。誰もいないはずの屋敷から、錆びれた世にも恐ろしい音が――なあんて、噂が建ってほしくないからね」
「ご迷惑をかけました、本当に有難うございます」
「とんでもない、こちらも面白かったわ。最後の最後に、屋敷を案内できて」
「それは、よかったです。それじゃあ」
 ぎぎい、と大きい装飾を施された扉が閉まっていく。また山村さんの世界が、外と内で分けられる。そして使用人の彼女が出てくれるまで、開かない。そしてまた使用人の彼女が出て行ったら、二度と開くことはない。それはどんなに悲しい出来事なのか、二十幾年しか、しかも平凡にしか生きていないわたしには想像がつかなかった。
「それじゃあ、狭い町ですから、また会えたら」
「いえ、二度と会わないでしょうね」
「え?」
 ぎぎい、と扉が完全に閉まる一瞬、彼女は微笑みを絶やさないまま、言った。
「最後に生きてる人に会えて、良かった」
 完全に扉が閉まった。そして鍵のかかる音が、中から聞こえた。今から扉をいくら叩いても彼女は開けてくれないだろうし、開けようとしても開かないだろう。わたしは、溜息をついた。そして、思わず呟きそうになる。騙された、と。
 わたしは方向転換して、傘を差し雨の中へ戻った。裏門を開け、完全に山村家敷地外へと出て行く。また、溜息。一度だけ振り返り、彼女の家を見た。まだそこにいるのか、あるいはもう地上から消えてしまったのかわからないが、寂しく見えたのは気のせいだ。
 そもそも、と私は思う。間違えていたのだ。“山村さんはお婆さんである”という前提こそが。それこそ家政婦は云々のごとく、偏見のせいで。もしかしたら単に死んでしまって幽霊化したため若返ったのかもしれないが、いずれにしろ偏見の壁は越えるまい。ああ、とわたしは思う。なぜかしらないが、後悔の波がどばあっとわたしを襲ってきたのだ。是非、生前に会いたかったとか、途中なぜ気付けなかったとか、色んな後悔だ。だがきっと気付くには無理があったに違いない。なぜなら山村さんもわたしを騙す気でいたのだから。
 まず使用人というところで、充分わたしを騙そうとしていたところが伺える。そしてもう一つ、自らの部屋に案内したところだ。あんな大きく古いながらも綺麗な装飾のあった屋敷のなかでも、小さく汚い部屋に屋敷主が住むわけがあるまい。いや――、もしかしたら、あれは嘘ではなかったかもしれない。わたしは思う。死ぬ間際まで、彼女は小さな体を大きな屋敷に放り投げている孤独感を紛らわすため、小さな部屋に凝縮していたのかもしれない。いずれもわたしの予想に過ぎないが、涙腺を刺激するには充分だった。誰かになぜ泣いているか聞かれたら、雨のせいだと答えよう。なぜメモとだけかと聞かれたら、答えられないだろうけれど。  ああ、さようなら、山村さん! この台詞が届くよう精一杯願った。屋敷からちりいん、とベルの音が鳴ったのは、気のせいだ。そう、きっと、気のせい。

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