// 月を食せよ、星涙せよ

 アイアムスター。ぼくは星です。それは何の嘘でもない事実だった。空をゆったり浮かぶ一つの小さい星。名前も何もついていない、場所によっては見えないような、そんな星。縛るものも縛られるものもない。それはとても寂しいことだし、美しいできごとのように思えた。  ある日、月と出会った。こんにちは、と礼儀正しく挨拶をした。月は緩い笑みを浮かべて、こんにちは、と挨拶をした。真っ白な光を放つ丸み帯びた彼女の体は、とても美しかった。噂はいろいろ聞いたことがあったけれど、会うのも喋るのも初めてだった。どきどきとあるはずのない胸が高鳴った。たぶん、すぐにまた離れてしまうから、いっぱい喋りたいな、と思った。
「初めまして、ぼく、星です」
「ええ、初めまして。わたしは月よ」
 見れば分かるような会話すら、素敵なロマンチックな会話に思える。お酒に酔ったみたいなくらくらとした感覚。お酒、飲んだことないけれど。ふわふわとした甘みに酔いしれていると、彼女の体の一部分が目に入って、びっくりした。体の一部が、欠けていたのだ。あんまりにびっくりして、口を開いたままぽかーんとしていると、彼女が楽しそうに笑った。
「びっくりした?」
「えっと、あの、はい……」
 どう反応すればいいのか、わからなかった。けれどそこで話が終わってしまうのもなんだから、ぼくは訊ねる。
「なんで、体、その、欠けてるんですか?」
「気になる?」
「あ、いえ、言いたくなければ――その、話さなくても」
 彼女は高らかに笑った。ぼくは体を強張らせる。
「うふふ、大丈夫よ。あのね、わたしは昔、罪を犯したの。どんな罪を犯したのかも忘れたぐらい、とても遠い昔に。それで空で一日中輝いて人々を照らす役割を与えられたの――。疲れるけど、楽しいわ。でも、もう一つ条件をつけられたの。体の一部分を食べられてしまう、っていう処刑……っていえばいいのかしら」
「体の、一部?」
「そう、一ヶ月かけてね、食べられるの。とても痛いし、悲しい。たまに体全部が食べられちゃうこともある。でも、また一ヶ月かけて体が戻るの。その繰り返し」
 ぼくはなんだか泣きたくなった。喉の奥がぐう、と鳴るような感覚。人間じゃあるまいし、感情だって感覚だってないのに、何故かそう思った。なんて悲しい人なんだろう。彼女の罪は知らないけれど、あまりに残酷すぎる。ぼくはついに泣いてしまった。ぽろぽろ涙がこぼれていく。それが、青い星に落ちていくのが分かった。彼女はそれをじいっと見やり、言った。
「あなたの涙で、何人の人が死ぬのかしら」
 ぼくは答えられなかった。ただ嗚咽を飲み込もうとして、失敗ばかりしていた。うううう、と唸る。一生懸命抑えて、抑えて、ようやく我慢できたころに、じっとぼくの泣く姿を眺めていた彼女が口を開いた。
「ねえ、あなたはわたしの体を、誰が食べると思う?」 「え?」
 彼女はにんまり笑った。もう二度と見ないだろう(なんとなくそう思った)、美しい笑みだった。
「星が、わたしの体を食べるのよ。」
 にっこり。ぼくは目をまん丸にして驚く。そういえば彼女からはとてつもなく良い匂いがした。人間ならばそう、空腹を誘われるような。でも駄目、駄目だ。食べちゃ、駄目。だって彼女が可哀想。可哀想すぎる。たとえ罪人でも絶対いけない。ぼくはまた涙を流す。青い星に落下する。彼女が、また口を開いた。
「わたしを、食べて」
 あまりに切ない願いだった。ぼくは泣きながら彼女を食べる。そっとかじって、咀嚼して、飲み込む。食べるという行為は初めてだったけれど、こんなに悲しいものだとは知らなかった。ぼくはお腹が一杯になるまで彼女を食べた。彼女は満足げに、ときに痛みに耐えるような表情で、ぼくを見ていた。ぼくは何度も泣いた。きっと恋愛は食べるという行為とよく似てるものに違いない。だって、こんなにつらくて嬉しいことなんて、ないのだから。ぼくが食べきれる彼女の最後を、ゆっくり飲み込んだ。

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