// 花を喰らえど

 花を喰らう人間がいるそうだ。その話を聞いたとき、私は脳裏にそんな人間をゆっくりと形作った。白い手が指に棘を刺さない様薔薇を掴み、ゆっくり茎を折ると、花弁をゆっくり一枚一枚口の中に放り投げては、恍惚の表情を浮かべる。想像の域を超えることはなく、どころか想像は想像にすらならぬまま、未完成のまま脳から消入った。
 それでは、と私は沈黙を破り口を開いた。お前は、見たことがあるのだろうか、と問うた。無論、花を喰らう人間を。彼は短い睫毛を微かに動かし、明るい茶の瞳を見せた。所詮盲目なのだから、瞳を見せようが見せまいが、彼にとって何のことはないだろうが。
 勿論、と彼は頷いた。と、同時に温い風が吹いた。白髪混じりの髪が揺れ、彼を囲む野花らも葉を花弁を踊らせ、心地よい声音で鳴いた。さらさら、さらさら。空は既に赤く染まり、またその光は花をも赤く染めていた。いかんな、と彼は囁いた。この時期、夕暮れは良くない。折角の花の色が、夕焼けが、勿体ない。美しさを重ねても、決して全てが更に美しいものになるとは限らない。それぞれが一つずつ、美しいままで良い。そう思わないか。私は何と返すべきか、少し考えたが、良いと思われるものは浮かばなかった。そうだな、と曖昧に呟く。
 だけれど、と言葉を重ねた。汚いものを汚いものを混ぜると、更に汚くなる。不思議なものだな。が、その台詞に彼はかぶりを振った。比べるという行為は、良くないよ。それこそ美しいものと同じだ、一つ一つ、別々であるべきなのだよ、と。所詮同じものといわれるものは、たかが知れている。全てを根本から思えば、全て違うものなのだよ。違うものを比べて、何になる。何にもなるまい。僕はその彼の台詞に反論するよう、返した。だが本当にそっくりそのまま、同じものを比べても何にもならないだろう。彼はその言葉に面白くもなさそうに笑った。だからこそ全てに対して、比べてはならないということだ。
 お前は、もしや花のことを言ってるのかね、と私は訊ねた。彼は頷く。彼の頷き方は独特で、いつも一定のリズムを持ってる様に思えた。そう、私は昔、彼と同じリズムを見たことがあった。彼は、私の問いに答える。そうだ、と。それだけだった。彼はそれ以上、語らなかった。
 もしや、と私は更に質問を重ねた。少しの罪悪感を持ち、記憶を蘇らせながら、彼の見えぬ瞳を見つめて。明るい茶色は、夕焼けのせいか更に明るく見えた。妹さんが、花を喰らう人間じゃないだろうかね。彼は一つ、鼻を鳴らした。やはり先と同じ、そうだ、とだけ言った。その後やはり沈黙してしまうかと考えたが、彼の言葉は続いた。
 花を喰らう人間の最後を、知っているか。いや、花を喰らう人間の存在すら知らなかったお前が、それを知るまい。知ってどうなるわけでもあるまいが、私は言いたい。懺悔したいのだ。今まで口に出せなかったそれを、口に出し、重荷を取り払いたいのだ。お前は、それを許してくれるだろうか、と。
 私は勿論、と頷いた。あまりに苦しい口調だったもんで、私は拒否することなど考えられなかった。彼はほっとした様子を見せ、けれどやはり苦しい口調で、言った。
 花を喰らう人間は、花になるのだよ。時期は、人それぞれだ。そして、その花は花を喰らう人間を本能的に惹き付ける匂いを持っている。故に、喰われる。永遠に続くんだよ、その行為は。止まるところを知らない。そして私も、その行為に巻き込まれた。きっと私ももうすぐ、花となるだろう。これは間違いなく、どうしようもない、罰だ。自ら光を二度と見えぬ様にしても、神はまだ満足せず、罰を重ね続ける。本能に打ち勝つことが出来ず実の妹を喰らった、私に対して。嗚呼、お前は私が憎いだろう、可愛い恋人を喰らった私を殺したいだろう。いっそ、殺してくれ。どうか、花になる前に。
 悲痛な叫びに、私は笑った。笑うべきではないと知りながら、高らかに。彼を蔑むように、自らを嘲笑うように、夕暮れの空に向けて、彼の同胞である花に向けて響かせた。殺すものか。私の恋人を喰らった人間など、花になれば良い。そうしたら、私が喰らってやろう。妹を腹に押し込んだ親友を、更に私の腹に押し込むのだよ。面白いじゃないか。例え花を喰らう人間でなかろうと、花を喰うことは普通の人間にだって理性的に出来るのだよ。
 彼は顔を青ざめて、瞳から涙を流した。その涙すらも彼女の一部なのだろうかと思うと、胸が痛み、殺したくなった。でも殺すまい。彼が花になるまでは。何故か、胸が痛んだ。さらさら、さらさら。風が吹くたび揺れる花たちの声音が、まるで泣いているように思えたのは、きっと気のせいに違いない。そこで私はふと気付いた。嗚呼、彼の頷くリズムは、花の揺れるリズムと同じなのだ、と。今となってはどうでもいいことだった。私は、笑うのをやめた。

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