形状記憶少女

// 狐ノ花

 久し振りの砂利道の感触が、痛いほど足に響いた。普段ただでさえ歩いていないせいだ、とすこし涙目になりながらも足は止めなかった。じゃりじゃり、じゃりじゃり、と小石のぶつかりあう音が耳に届くたび、自分が子供に戻ったような感覚を味わう。足先からじわじわとタイプスリップしているようだ。まばたきして偶然目の前の景色が昔見た景色と重なると、本当にタイムスリップしてしまったんじゃないだろうかと、どきっとした。でもそんなことは有り得なくて、昨日降った雨の水溜りを覗くと、やはり大人のわたしがそこにはいた。ほっと安心する自分もいたし、なんだが残念に思う自分もいた。変なの、と思った。
 わたしが今向かっているのは狐ヶ丘と呼ばれる、草と野花がぼうぼうに生えた狭い広場のようなところだ。周りは深い森に囲まれていて、その森に狐が住んでいるということでそんな名前になったそうだ。本当はもっと古めかしい名前があったのだけれど、いずれ老人達も簡単な名前で呼ぶようになると誰もが元の名前を忘れてしまった。元の名前があったことすらも、忘れて。
 足がさらにじんじん痛んできた。小石が食い込む。なぜ昔はこんなところを屁とも思わず走れていたのだろう。不思議で仕方がなかった。そう思った瞬間、ぱっと頭の中に浮かんだ。一人の少年の、白い首と細い指がしなやかに動くところだった。指は名前もわからない野花を摘み取ろうとしていた。もう片方の手には今まで摘まれたのだろう花たちを持っている。その様子はまるで人外のようで、森の狐をはっと思い出させた。狐は化ける。もちろん人間にも。けれど、わたしはそんなことあるまい、と一人首を振った。例えどんなに幼くても、そんなことは理解できた。そして目の前の少年はこちらに気付いたようで、ゆっくりと振り向いて――と、そこで彼の動きは止まった。また、彼の周りの景色も止まった。けれどそれで充分だ。少年とわたしのその後は、つまらない恋愛話と何も変わらない。すぐに仲良くなり、幼いながらに恋心を抱いた。けれど結局両思いになれず、別れることとなる。それは、しようのないことだった。今でも別れるときのことはよく覚えていた。わたしと彼は狐ヶ丘の真ん中に座り
「彼岸花、地獄花とも言うそうよ」
「そうなんだ、でもぼくは綺麗で好きだなあ」
「わたしも」
 などと喋っていたと思う。彼はせっせと花輪を作りながら話していた。わたしはそれを見ながら、眠気に負けないよう、一生懸命だった。ぼんやりとする頭が心地よくて、でも彼と遊ぶんだから寝ちゃいけないと思って、でもいつもどおりだと安心していた。けれど突然はっとした。いつまでもこんなことが続くわけない、とか、母にこんなことを知られては起こられてしまう、とか、いろんな不安が積もったせいだと思う。それだけじゃなく、なにより、嘘をついている罪悪感がたまらなかったのだ。ぞわぞわと気持ち悪いものが、わたしの小さな体を這う。目には涙をためて、唇をかみしめた。そんなわたしの様子に気付いた彼は「どうしたの」と高い少年らしい声で尋ねてきた。もう今日で終わりだ、と思った。自分自身の手で終わらせなければ、とも思った。
「もうお別れなの」
「どうして、なんで、急に?」
と、彼は戸惑った声で呟く。わたしはそれに答えず、鼻をすすりながら彼の完成した花輪を手に取った。
「知ってる? 化けた狐を元に戻す方法」
 彼はぴくりと体を震わせる。分かりやすい反応だった。そう、彼も理解しているのだ。たまった涙がこぼれる。この涙が土にしみ、草花の成長に少しだけ、ほんの少しだけ役立つんだと考えると、優しい気持ちになれた。
「狐はね、花輪を頭にかぶせると、なぜか元に戻るんだよ」
 彼は泣きそうな顔をしていた。美しい泣き顔だ。たぶんわたしは二度とこの泣き顔を、彼の顔を見ることがないのだと思うと、さらに涙を流した。「ごめんね」とわたしはその一言を必死に呟いて、彼の作った美しい花輪を、自らの頭にかぶせた。指先からゆっくりと元に戻る感覚がした。いつも化けるときは一瞬だから感じることのないそれを、じわりじわり、染み込んでいくように味わった。わたしの体がようやく完璧に狐に戻ったとき、彼は驚いた顔をしていなかった。ただ悲しそうな瞳をみせているだけだから、ついわたしも悲しくなって、だっと逃げ出した。頭の花輪が落ちたような気もするけど、気にしていられないぐらい悲しくて逃げ出したかったのだ。
 わたしはいつのまにか閉じていたまぶたを、そっと開く。目の前は狐ヶ丘。逃げ出した幼い頃から何も変わっていない、草と野花がぼうぼうに生えた丘だ。そしてやはりその中心には、彼が立っているのだ。手には彼岸花で作られた花輪を崩さないよう丁寧に置いている。もう片方の余った手には、紙に包まれた一升瓶らしいものを握っている。あの悲しそうな瞳は強い眼差しを持った瞳となって、白い首はすこし焼けてたくましくなって、身長は昔よりもずっとずっと、高くなっていた。でも変わらない彼の中の何かが、わたしの今まで食い止めていた感情が溢れるさせる。それを抑えながら、涙目になりながら、声をかけた。
「何年経ったかしら」
「もう十五年ぐらい経つんじゃないかな」
「そう、あなたも、成長が止まるほど成長するはずね」
 そう言うと、彼の細めた目が優しく垂れた。ああ、彼だ、とわたしはしんしんと感じた。おばあちゃんそっくりの笑いかた。彼の祖母もまた、わたしに優しくしてくれた一人だった。器にご飯と味噌汁を盛ったものを、よくご馳走してくれた(もちろん、狐の姿のときだ)。近づくとわたしが逃げるのを承知していたから、すこし離れたところからにこにこと笑いながら、わたしが食べるのを見ていた。そのときの表情と彼の表情はよく似ていた。幼い頃よりさらに近づいている。
「なぜ、ここにいるの? 東京に戻ったんじゃないの?」
「それはこっちの台詞だ、と言いたいところだけど、うん。ついにおばあちゃんが死んでしまったんだ。今さっきのことだ」
 わたしはびっくりして、目を丸くした。でもすぐに落ち着いて、頷く。
「そうね、もうお年だったもの」
「たぶん、百を超えていたな。大往生だよ」
「でも尚更よ、なぜおばあちゃんが死んですぐに、ここにいるの?」
「遺言だよ、狐ヶ丘に行きなさい、あの子が待ってるからって」
「……わたし? 変ね、おばあちゃんの前じゃ人間の姿になったことないのに」
「うん、でも分かっていたんじゃないかな。あのおばあちゃんだし」
「そうね、あのおばあちゃんだもの」
 くすくす、と私たちは笑い合った。人が死んだというのに、不謹慎このうえないだろう。けれどおばあちゃんは死んだというよりも、ただ遠いところへ行ってしまった、という感じだったのだ。旅に出かけたみたいな、気軽さを残して。それはきっとおばあちゃんだけにしかできないことだと思う。あまりに優しくて、不思議なおばあちゃんだった。
「そういえば、どうしてわたしがわたしだと、分かったの? ……変な質問だけど」
 本当に変な質問だ、と思った。記憶喪失をした人のようだ。けれど彼はゆっくり頷いて、でもおかしそうに笑いながら返した。
「うん、正直最初は知らない人だと思ったけど、裸足だったから」
「はだし?」
「うん、人間の子供は靴を履かないこともあるけど、大人は靴を絶対履くんだ。知らなかったのかい?」
 はっとした。だから足が痛かったのか、と。素足に砂利道は痛いのなんて、当たり前だ。子供の頃も確かにそれを体感したはずなのに、狐ヶ丘の柔らかな草のマットでしか行動をしなかったから、すっかり忘れてしまっていた。うわあ、なんて馬鹿なことをしたんだ! と頭を抱えたくなった。
「君は肝心なところをうっかりするところ、まったく変わってないね、安心したよ」
「嫌だわ、そんなところが変わってないなんて」
 むう、と眉をしかめた。すねたわたしの様子を楽しそうに見て快活に笑い、頭に手をぽんぽんとはねさせた。昔は同じ目線で短い腕を伸ばし撫でていたのに、今では腕を少し曲げて、だ。時の流れを感じさせる。けれど大きな掌が頭を包む感覚が気持ちよかった。
「そうだ、忘れていた」
 掌が離れていった。残ったぬくもりばかりが寂しい。そんな感情を振り切りながら、なにかしら、と首をかしげた。手に持っていた彼岸花の花輪を、そっとわたしの目の前に差し出した。思わずびくっとする。そのわたしの反応に、まゆを落としながらも言った。
「一応、後悔していたんだよ、あの日のこと」
「……ごめんなさい」
「謝罪を求めようとしたわけじゃないんだ、ただ、この花輪をかぶってくれないか、って」
 俯いた顔をあげた。彼の困った表情。彼が本気だとわかった。すこしだけ、身を引いた。
「わたし、元に戻っちゃう」
 今にも泣きそうな声が、自分で情けなかった。でも彼はゆるやかに首を振る。
「いや、大丈夫だ。……確証があるわけじゃないんだけどさ。化けた狐に花輪を乗せると元に戻るのは、ぼくの推測だけど、化けるという漢字に草冠をつけると、花っていう字になるだろう? だから化けるという字が消えて、元に戻ってしまう。でも狐に対してマイナスの要素をもたらさない花だったら、大丈夫なんじゃないかって。それで気になって調べたら、彼岸花が狐の髪飾りといわれることを知ったんだ。……うーん、やっぱり、だめかな」
 彼の口調は不安そうな台詞のくせに、確信を持った強さがあった。わたしは強張らせていた顔をゆっくりほどいて、微笑む。まったく、嫌な人、と思いながら。
「いいよ、わたしは」
「本当に?」
「決心が揺るがないうちに頼んだわ」
 笑って言ったけれど、やはり体があのときを思い出して緊張していた。静かに深呼吸をして、きゅっと眼をつむった。高鳴る鼓動が体中に響く。彼が動く気配がした。そっと、花輪の感触が近づいてくる。彼の吐息がかかるほど誓い距離。花輪が頭に乗せられた。息が止まる。――けれどいつまで経っても、体が元に戻る感覚はない。強くつむっていた眼を開く。溜息をついた。なんて重苦しい空間だったんだ。
「いや、よかった」
 彼も安心したように息を吐いた。
「もし元に戻ったら、逃げられてしまってもう二度と会えないと思ったんだ」
「わたしもよ。元に戻ったら逃げて、もう二度と会わないと思った」
「おお、そりゃ恐ろしい」
 ほっとしたように二人で胸を撫でた。花輪を頭に乗せるだけでこんなに体力を使うカップルは、わたし達以外きっと存在しないだろう。まるで交わったように近く、苦しい時間だ。口付けるよりも性交するよりも、存在が近かったと思った。
「よし、新婦も着飾ったし、結婚式を始めようか」
「あれ? いつの間にか結婚式?」
「ごっこってことで」
 笑った彼の瞳はやはり本気だ。彼のいつでも本気だから困る。でもそこが好きでもあった。強制を強制と感じさせない優しさ。ずっと彼以外の男の人と出会ったことがないから、ひどく優しく思えるだけなのかもしれないけれど、わたしにはそれで充分だったから、それでよかった。
「せっかくお酒も用意したんだ。もったいないだろう?」
「ええ、それ酒だったの?」
 びっくりした。彼が持っていた一升瓶(と、盃)は酒だったらしい。また彼もびっくりして尋ね返した。
「なんだと思ったんだい?」
「……醤油かと」
「どんな奴だ、そりゃ!」
 けらけら笑った。わたしは頬を赤く染めながら、早く式を進ませなさいとごまかした。ごまかしきれてないだろうけれど、とにかくそのことから逃れられたのでよかった。赤い盃と一升瓶が紙の包みから出てきた。
「三々九度とかややこしいことあるけど、そういうことは一切抜きにしよう。酒飲み大会だとでも思ってくれ」
「なにそれー」
 そう呟きながらも、彼が盃に注いだ酒をごくっと飲んだ。安いのなのか、口には出さなかったが不味かった。彼もそれを思ったらしく、わたしの飲み残した酒をちょっと飲んで眉をしかめていた。
「うん、まあ一度飲めば大丈夫だろう」
「何が大丈夫なのよ」
「……し、式の具合」
 ごまかしの下手さも、わたしと彼はよく似ていた。くすくす笑う。彼も照れたように笑った。なんて優しい空間だ、と思った。これを見た誰が化けた狐と青年が結婚の盃を交わしていると考えよう。例え気付いても、考えないでほしい。心底、そう思った。単なる若い人間同士の青い恋愛だと、勘違いしてほしかった。一生のお願いというのが使えるのなら、使いたかった。こんなにも望んだことは今までない。きっとこれからも、ない。空をなんとなく見上げる。頬にぽつりと、しずくがこぼれた。あれ? と思うとどんどん降ってきた。軽くぬるい雨だ。
「天気雨だ、最近は見ていなかったけど、懐かしい」
「……狐の、嫁入りよ。どこかで誰かが結婚してるのよ、きっと」
「ああ、そうか。――いや待てよ、うん、冷静になってみよう。もしかしたら神様がぼくたちのことを認めてくれたんじゃないだろうか、と考えてみてはどうだろう」
「あるわけないでしょう。狐と人間の結婚どころか、恋愛すら認められないわよ」
 わたしは自分で言いながら、悲しくなった。でも彼は明るい様子でいやそうに違いない、と勝手に決定していた。
「日本には八百万の神がいるんだから、一人ぐらい認めたっていいじゃないか」
「……そう、そう、ねえ」
 雨がぽつぽつとわたし達をぬらす。晴れた空から降る雨にどんな意味があるのか、人それぞれだろうけれど。わたしは俯いて、思う。きっと、そうだといい、と。わたしと彼を認めてくれた神様からの、優しい粋な贈り物であればいいと、思ったのだ。どんなに馬鹿らしい勘違いでも、一瞬でも幸せにしてくれた神に、感謝しよう。彼岸花の花輪から、ぽたりと、しずくが落ちた。

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