// ひとりの傘

 ぶかぶかのサンダルへ音も立てずに片足を滑り込ませて、しばらく動きを止める。耳に届く音のなかに人間が動くような音は含まれていないことを確認して、もう片足もサンダルに滑り込ませた。そしてなるべく音を立てないよう、横開きの扉に手をかけて細い隙間を作り出す。だが慎重すぎたせいか、その隙間は子供一人通れるかどうかぐらいだ。……大丈夫、最近ダイエットしてるし。自分を励ますようにぐっと握りこぶしを作って、勇ましく体を横に(ついでに腹を目一杯へこませて)内から外へと這い出る。ほんのちょっぴり扉が動いてしまったけれど、家族が目を覚まさない程度の音が出ただけ。平気。全身がようやく外へ出ると、ひとつ小さな溜息をついて扉を閉めた。外に出ればこっちのものだ。ざあざあと騒がしい雨音を耳に、わたしは大きく深呼吸をした。ひとつ、ふたつと頭の中で数えて息を思い切り吸う。みっつめには息をそっと吐き出す。今のわたしはまるで水面から口だけを出して、ぱくぱくと空気を求める金魚みたいだ。しっとりと湿った空気が体中に満たされる。
 すぐ横に置いてある傘立ての中から、お気に入りのビニール傘を手に取った。暗闇の中薄っすらと白く光るそれは、コンビニとかで売っている安いやつだ。大衆による、大衆のための、大衆へ作られたそれ。だけどわたしという個人の手にしっくりくるそれ。その傘の柄をぎゅっと握って、傘立てから抜き出す。ざあざあと騒がしかった雨は、さらさらと薄い細いあめに変化していた。でもまたすぐにざあざあと騒がしくなるだろう。視線を上げて、星を隠す黒い雲の流れを見た。そしてそれを透明なフィルターで覆う。ばさり、と鈍い音。ビニールにはじける水の音が心地よい。また、傘から流れ落ち、地面へ着地する雫の音も。すべて舞台は整っている。そんな風に思えた。
 なぜわたしは中学最後の夏休みがあと数日と迫る日の夜中、家族を起こさぬよう慎重に家を出て散歩をしようなどと考えたのだろう。家の敷地にまんべんなく敷かれた砂利をざくざくと音を立てて歩きながら、思った。別にゴミのネットを回収し忘れたわけでもないし、突然お腹が減ったとか、喉が渇いたとかそういうわけでもない。外に出なければいけない理由なんてまったくないのに。けれど今日でないといけないと思えたのだ。すべて舞台が整っているのは、今夜だけ。そんな風に、思えたのだ。
 ふと地面の感覚が変わった。気付かぬうちに砂利道からコンクリートへと変わっていたようだ。そこでようやく自分が真夜中に外を出歩いている、ということを理解した。なんだか背筋がぞわぞわとした。そして頭の中にぐるりと言葉が巡った。おばけ、幽霊、変質者。そもそもそういうことは得意なほうじゃない。幽霊を追い払うための霊感があるわけでもないし、変質者を撃退するための力技を持っているわけでもない。きっと会ってしまえば、叫び声をあげることすらできず……。いや、考えるのはやめよう。わたしはぽてぽて歩きながら、とりあえず真っ直ぐ先に見える小さな眩しい光、自販機を目指した。特別お気に入りのジュースとかがあるわけでもないし、さっき言ったとおり喉が渇いたわけでもない。ただふらふらと歩いているだけでは何の意味も持たないから、その行為の意味を無理矢理後付しただけだ。打ち切りの漫画みたい。あるいは、長く続きすぎた物語。
 とても遠くに見えた自販機は、意外と近かった。おばけ、幽霊、変質者を恐れて足が自然と速まったのかもしれない。早くジュースを買って帰ろう、と思う。それと同時にまだ舞台は終わっていないとも、思う。しとしとと降る雨に濡れた自販機の目の前で、ポケットの中を探った。多分、小銭ぐらいは入っているはずだ。ごそごそ、と潜らせる。こつん、と固い感触がした。その固い感触を掴んで、ポケットから抜いて掌を開く。げ、と思わず呟いた。五十円玉が一枚と、十円が三枚と、一円玉が一枚。計八十一円なり。目の前の自販機の、金額を確認する。田舎だから普通よりも十円安く、百十円の表示。ペットボトルだと百四十円。いずれにしてもお金は足りない。うそーん、と呟いた。雨の音で自分の耳にも上手く届かないぐらい、小さく。そこで、低い声がする。クラスの担任(四十前半、妻子ありのメタボリックらしい体育教師)よりは高くて、綺麗で、よく響く声。雨だというのにかすみがかっていない、はっきりとした声。
「何が欲しいんですか?」
 とても非現実なことでも口にすれば、なんでも用意してくれそうだった。だからわたしは思わず口を滑らせて答えた。
「世界」
 本当に今欲しいものは世界じゃなくて、お金だった。ついでにその次は好きなブランドの洋服だったのだけれど。こんなところでぱっと出てくる単語でもあるまいに。病んでる人みたい、と自分で眉をひそめた。
「変わってるんですね、女の子なのに」
 女の子なのに、なんて差別用語ですよ、というかそんな問題じゃないと思いますけど、などという冗談でも言おうかと思ったけれど、あまりにわたしと彼の雰囲気がしっくりき過ぎて恐ろしかったので、ただ口をつぐんだ。もしかして神様か何かが降臨したのかしら、と一瞬思った。でも神様より死んだ父親のほうが近いかも、とも思ってしまった。わたしがとても小さい頃に母とわたしと妹を残し、わずか三十五で逝ってしまった父。あまりに小さすぎて顔も声も霞んでいるというのに、父親じゃないかと思った途端、それが事実であるように思えた。クイズ番組で正解が出たように、すっきりとした脳。そう、彼は、父だ。馬鹿らしくも悲しく、そして嬉しかった。ああ、今父さんが目の前に、と思うと胸に熱いものがこみ上げて、外へと吐き出されそうだった。つまり、泣きそうだったのだ。零れそうな涙をごしごしと腕で拭き取りながら、わたしはゆっくりと声のしたほうを見やる。そこには紺色の傘を指した、少なくとも見た限りでは一般人がいた。黒い髪を短く切りそろえて、ちょっと幼い顔のスーツを着た男性、だと思う。ちょっと曖昧なのは彼を照らす街灯がチカチカと点いたり消えたりしていたからだ。市長、とっとと直せよ、と思いながらほんの少し目を細めて、それであっているのか答え合わせするように父を凝視する。
「お金、足りないんじゃないんですか?」
 そんなことを構う様子もなく(あるいは気付いてないのかもしれない。鈍感そうだし)彼はにっこりと笑って持っていた鞄から財布を出そうとした。
「いえ、大丈夫です」
 慌てて拒否すると、今度は近づいてきた。こつ、こつ、と彼の履いている革靴が音を立てて近寄る。すこしだけ体が強張ったけれど、大丈夫。逃げれる程度だ。万が一のときは叫べばいい、そして傘を捨てて逃げればいい。足もちょっと後ろへずらす。何故わたしは父を恐れるのだろう、と思う。が、当の本人は何食わぬ顔で財布からお金を出し、わたしの隣に構えていた自販機へちゃりんちゃりーんといい音を立ててお金を投入していった。そこでようやく顔がちょっとだけ見え、整った顔立ちではないが愛嬌があるな、などと思っていた。金は何円入れたかはわからなかったが、缶ジュースが二本買ってお釣りがゼロ円。つまり二百二十円、ぴったり入れたようだった。そしてまたも何食わぬ顔で、その缶ジュースの一本をわたしに差し出した。わたしと彼の傘の間で雨にさらされる缶ジュースが、なんだかとてつもなく可哀想な存在に見えて思わずそれを受け取った。無言でのやり取りだというのに、身内同士の馬鹿みたいな話を交わしながらのやり取りのように思える。彼はわたしが素直に受け取ったのを満足げに微笑んで「こんばんは」と言った。常識人としてわたしも「こんばんは」と返す。ついでに頭を下げたのだけれど、その時缶ジュースのプルタブが目に入って慌てて「ジュース、有難うございます」と付け加えた。彼はとんでもない、とでも言うように首を振る。
「あの、今わたし手持ちがないので、その、お金、返せないんですけど……」
 まさか体で返せなんていうんじゃありませんよね、とでも続きそうな台詞だった。我ながら情けない。けれど彼がそんなことを言い出すなんて有り得ないだろうし、わたしもそんな風に返す気はなかった。ただ何かしら形にしなくては、と思う。恩は恩で返せ。おじいちゃんからの遺言だ。いや、まだおじいちゃん死んでないけど。そんなわたしの意志を汲み取ったのか、彼はこっくり頷いて「よろしければ」と口を開いた。
「どこかでお話でもしませんか?」
「話、ですか?」
「ええ、それで缶ジュース代もちゃらってことで」
 どうしようか、と考えた。さすがに何時間も外を出ていたら不味いよな、と思ったのだ。でもこのまま家に帰ってジュースを飲んで寝るより、おじいちゃんの言葉を守ったほうがよっぽど有意義だ、とも思った。わたしはさっきの彼みたいに、こっくりと頷いた。彼はやはり満足げに微笑むだけだった。
「君は高校一年生ぐらいかな」
「いえ、中学三年生です」
「そっか、中学生か。若いですねえ」
「そんなことないです。ええっと……あなたは、結婚してるんですか?」
「ええ、妻と娘がいます」
 可愛いですか、と問えば当たり前のように間なくもちろん、と帰ってきた。まさにその娘が今ここにいますよ、と思ったけれど、口には出さなかった。もしかして自分が死んでいることに気付かず、仕事をして、家に帰ろうとしているところなのかもしれないし。もちろん死んだときと同じ思考なのだから、娘だって小さいのだからわたしが娘であると気づかないで当然だ。気付いた途端消える、なんてお約束名パターンだし。しかし、しとしと降る雨の中、年齢についてあるいは家族について語る初対面のわたし達は不思議な組み合わせだった。スーツ姿の男と、家着で整えられてない髪形をした二人に共通点は見えない。いや、たった一つ共通点があった。さっきは気付かなかったけれど、彼はどうやらわたしと同じ傘らしい、ということだ。同じ形で同じ白い柄と、ぴんと張られた透明なビニール。それにはじける雨の音。けれどそれが「ああ、この二人はこういう関係ね」と結びつかせる共通点でないことは、たしかだった。公園の真ん中にある大きな外灯がわたしと彼を照らす。けれど彼がはっきりと見えない。スーツがどんな色か、どんなネクタイかもようく分かるのに、顔ばかりが見えない。ああ、やっぱり死人と会うってこうなっちゃうのかな、と思った。足はあるのに。
「それにしても、不思議だね」
 父はたしかに不思議そうに、そして楽しそうに笑って口を開いた。
「僕と君は初対面だというのに、こんなにも仲良く話している。内容はとてもつまらないはずなのに、なんだか旧友と馬鹿話で盛り上がっているようだ」
 そりゃ、血がつながってますから、という言葉を飲み込んでわたしは頷く。
「夏休みの夜中で、雨で、初対面という、色々な条件が重なってそうなったんじゃないでしょうか」
「ふん、なるほど。例えそうだとしても、僕はそれだけじゃないと思うんだよ。例えば、ここに一本の傘がある。一般大衆のために大量に作られたうちの一本だ。他の傘たちとなんら変わりのない、平々凡々なる傘だ。けれど僕はこの傘をなんとなく、本当になんとなく気に入っている。家に置かれている傘でふと手に取るものはいつもこれだ。歯車が噛みあってるようにキッチリとしたものではないけれど、何か通ずるものは感じる。……これは、人間にも当てはまるんじゃないかと思うんだ」
「その一本の傘のように、わたしとあなたも何か通ずるものがある、ということですか?」
「そう」
「……だから、わたしに話しかけたんですか?」
 彼は首を傾げ頭の中で自問自答したようで、間を空けてから素直な子供のように頷いた。わたしは思わず溜息をする。なんつー子供っぽい人だ。そこでようやく目覚める。この人が父なわけないと。母の聞くところによると父はマイペースではあるが、物事を何でもはっきりさせる人だという。けれどこの人はあまりに抽象的過ぎる。存在さえも抽象的だと思える。はっきりしない、ぼやけた、幻のように掴め切れない。掴んだら消えるか、あるいはこぼれ落ちてしまうか、そんな感じがするのだ。なんだか一瞬でも夢見てしまった自分が馬鹿らしくて、悲しかった。彼の顔をじっと見る。よく見えなかった顔が、はっきりと見えた。わたしにも、妹にも、何処も似ていない顔だった。意識した途端これかよ、と文句を吐きそうになった。
「変な人ですね、あなたは」
「よく言われます。たぶん、これからも言われるでしょうね」
 ええ、きっと。確信を含んだ口調で呟いた。わたしは空を見上げる。透明なフィルターにたんたん落ちる雫が邪魔だと思いながら、暗い空を見つめる。星はやっぱり見えないし、月だって隠れたまんまだ。明日の朝には晴れるのかしら、薄っすらとした影を残して月は浮かんでいるのかしら。
「あなたは、ここの土地の人じゃないですよね」
「ええ、出張で来ただけです」
「じゃあ、もうここには来ませんか?」
「……そうですね、二度と来ないでしょう」
 彼も確信を含んだ口調だった。わたしの胸が尖った爪でかじられてるみたいに、ほんのすこし余韻を残してきりきり痛む。こんなのは、小学生の頃に好きな人がわたしじゃない女の子と両思いになって付き合い始めたとき以来だ。そのあとわんわん泣いて、妹に背中をなでられて優しく慰めてもらったことをよく覚えている。あの時とは少し違うかもしれないけれど、大切な人が目の前から消え去るのは同じだ。好きな人の視界にわたしはなく、違う女の子がいる。今は、わたしの視界に大切な人が消える。初めて会って一時間も経っていないというのに大切な人だなんて、相手にとったら不愉快甚だしいかもしれない。けれどわたしの少ない語彙では、そうとしか言い表せれなかった。
「じゃあ、お別れですね、これで」
「ええ、そうですね。送っていきましょうか?」
 とても優しい瞳をした彼。父ではない彼。大切な彼。わたしは二度と忘れないだろう、短い恋愛をした。彼も、二度と忘れないでくれるだろうか、とわたしは考える。精一杯微笑んで、首を振った。
「いえ、大丈夫です。早く出張が終わって、奥さんや娘さんと会えるといいですね」
「――ええ、有難うございます」
 雨がたんたん、たんたん、リズムを取って木の葉を外灯を傘をわたしと彼の握手を濡らした。雨に濡れるわたしと彼の結ばれた手は、とても可哀想に見えた。それはきっと、わたしだけに違いない。だってこんなに幸せそうな彼にそんなことは考えられないもの。短い恋愛は、手が放されると同時にゆっくりと幕を閉じられた。手に残る温度も感触も、いつか消えてしまうと思うととても悲しかった。だから美しい思い出として保存されるのだ、とわたしは思い、さよならを告げるのも忘れて走って帰る。はねる泥が、足にまとわりついて気持ち悪かった。

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