形状記憶少女

// コウノトリは二度笑う

 青いにおいが鼻についた。においに色はついていないけれど、例えるならそんな色。光が入っているのかもわからない深く茂った森の中に、そっと芽生えた新しい命の匂い。そして匂いはわたしのすっかり重くなったまぶたを軽く開かせた。ついでに眉をしかめさせて、鼻をぎゅっとつまませる。やっぱりこの時期に外で昼寝は失敗だったかしら。そんなことを考えながら、せっかくリビングから引きずってきたお気に入りの椅子をまた引きずって家の中に戻った。空は綺麗なスカイブルーをしていて、風も適度にあって良かったのに。あの匂いは予想外だった。普通青い若葉の匂いって言ったら爽やかなイメージのはずなのに、ここの森の匂いは何故あんなに濃くって鼻をじんわり麻痺させるような匂いなのかしら。
 不機嫌な顔をそのままに自分の部屋へ戻って、漫画みたいに愛らしいお姫様ベッドに飛び込んだ。そこでタイミングよくメイドが紅茶とクッキーを持ってくる。部屋に入る際にはノックをして「お帰りなさいませ、お嬢様」という台詞なんかも律儀に言って。ついでに作業の邪魔にならない程度のシンプルな装飾のメイド服を着て、隙の見当たらない笑みを顔に貼り付けてたりする。わたしは彼女の持っているトレイの上をちらりと確認した。紅茶はこの暑い時期に湯気が立つぐらい熱いやつで、クッキーは砕かれたくるみ入りのさっぱりしたものだ。そしてそれらを作ってわたしに差し出すタイミングも加えれば、彼女がわたしの好みを熟知していることがよくわかる。文句一つつけようのないそれらに、わたしは無言で手をつけた。「手を洗ってからのほうが衛生的によろしいと思われます」なんて彼女の台詞などもっぱら耳に入らない。彼女もそのことはよく分かって言っているのはわかりきったことだ。こんな毎日を繰り返しているせいか、たまに馬鹿馬鹿しいが考えてしまう。わたしたちはどこかに置いてある台本を読んでいるだけなんじゃないだろうかと。予測できない未来なんて迎えたことがないせいだ。本当に馬鹿馬鹿しい。わたしは思考を遮るように皿の上のクッキーを口一杯に含んで、紅茶で流し込んだ。からっぽになった皿とティーカップを確認すると、彼女は楚々と頭をさげて下がろうとした。いつもどおりわたしの気に障ることのない彼女の仕草は、今日はやけにいらつく。わたしの気も知らないで、とひどく身勝手な思考が突然働いたせいだ。
「待って。そんなのは後にしてここに座りなさい」
 わたしの言葉に立ち止まって、ゆっくりと振り返った。わたしの座っているベッドの隣に座れ、という指示を理解する。そして口元の機械的な笑みを崩すことなく、首をゆっくりと傾げた。それは彼女の合図のようなものだ。どちらを優先させればいいか、判断に迷ったときのポーズ。けれど彼女自身の頭の中で決着はつかないものだから、結局指示をしたわたしに尋ねることとなる。その沈黙の時間は少し長いけれど、嫌いじゃなかった。
「このあと食器を洗って片付けた後、本日の夕飯のお買い物、お部屋の掃除、明日の朝食の仕込みなどの仕事がございますが、どうなさいましょう?」
「全部後よ。時間はお釣りが返ってくるほど、たっぷりあるんだから大丈夫でしょ」
「了解しました」
 にこっと笑って食器を乗せたトレイを足元に置いた後、わたしの隣に腰掛けた。決して何か話すことがあるわけじゃない。引き止めたのは彼女の仕草にいらついたからだけれど、それを彼女に言ったってどうしようもない。わたしの一時の感情でしかないのに、いちいち彼女の行動を狭めるようなことはしたくないのだ。理不尽という言葉は、きっとわたしのためにあるに違いない。思わず溜息をつこうとすると、窓をコウノトリが横切った。その長いくちばしに木製のカゴがぶらさがっているのがよく見える。
「ねえ、何故彼らはあんなことをしているのかしら」
「――この国で赤ん坊は神からの贈り物であり、コウノトリはその神の使いだと言われています。実際結婚した男女の元に、赤ん坊がカゴに入って運ばれてきます。ただその届けられる時期は人により違います。また少数ですが赤ん坊が運ばれない夫婦や独身でありながら運ばれる女性が存在し、またさらに少数ながらカゴを落としてしまうコウノトリが」
「そうじゃなくて」
 彼女の淡々とした説明を遮る。恐らく脳に埋め込まれた辞書ツールをそのまま引用しただけだろう。コウノトリというワードにヒットした文章を。だが彼女の言うとおりだ。何故彼らがあんなことをしているか。それは神の使いだから。そうとしかいいようがない。でもわたしが聞きたかったのはそんなことじゃない。もっと、もっと――。
「……機械、もういいわ。仕事に戻りなさい」
 わたしは唸るように彼女の名前を言った。その言葉を聞いて、彼女は一礼した後部屋を出て行った。名前と呼ぶべき名称ではないかもしれないけれど、それはわたしが生まれて初めて制作したものだった。機械、機械。わたしの愛しい家族の名前。でもたまに、そんな感情がわたしの心臓を掴んだ。所詮彼女は機械で、わたしのような感情を思ってくれないのだ。機械、機械。わたしは頭の中で何度も彼女の名前を叫んだ。けれど襲ってきた眠気に逆らうことなく、まぶたをゆっくり閉じながら。
 そして見る夢はいつも決まってる。小さなわたしが機械に質問するところを、空から眺めている夢。狭い世界で生きてきたわたしに、選ぶ権利はないのかもしれない。面白い小説をいくら読んだって、つまらないテレビをいくら見たって、わからないラジオをいくら聞いたって、その夢以外をみたことがなかった。そしていつも後悔するだけだ。だめだめ、そんなこと聞いたって、どうにもならないわ! とっても苦しい思いをするだけなんだから、と喉が痛くなるぐらい叫ぶ。それなのに小さなわたしは純粋な好奇心から彼女に尋ねる。彼女もそれに答えようと、笑顔で返す。
「わたしになんでお父さんもお母さんもいないのかな」
「コウノトリさんが、カゴからお嬢様を落としてしまったためです」
「なんでわたしは外に出ちゃだめなのかな」
「外に出ると、人がたくさんいます。人々はコウノトリさんが落としたカゴの赤ん坊を、神から見捨てられた子だと忌み嫌うためのです。そのような人々にお嬢様を触れさせないためです」
 小さなわたしは理解していなかった。でもいずれ嫌でも理解することになる。外の世界を知りたくて、たくさん本を読んでテレビを見て、ラジオを聞いて、理解して、絶望する。でもそんなことをまだ知らない無邪気な小さなわたし。小さなわたしは大嫌いだ。
「じゃあじゃあ、なんであなたはおっきくならないのかなっ?」
「私が人型の機械だからです。機械は成長しません」
「そっか! 機械だからなんだ! ……じゃあ、あなたのお名前は機械なんだね」
「いいえ、私の名前は××です」
「むう、難しくてよくわかんない。だから、機械! 決定なの!」
「了解しました」
 彼女の前の名前はやっぱり思い出せない。かすみがかったように聞こえてこなくなる。けれどこのシーンがとても好きだった。小さなわたしが彼女に名づける瞬間。だからこそ、この夢を繰り返し見てしまうのかもしれない。お気に入りの映画で結末を知っているのに、何度も見てしまうように。心のどこかでまた見たいと望んでしまっているんだ。なんて悲しい、願い。
 ぱっと目を覚ますと、窓から西日が射していた。あたたかなオレンジ色で白いシーツが染まる。小さくあくびをした後に、ぼんやりとした頭で考えた。ここはどこ? しばらく考えてから自分の部屋で寝てしまったことを思い出す。のろい足取りでリビングへ行くが、機械はいない。どうやら彼女は買い物へ出かけたらしい。しんとしたリビング。彼女のいない部屋。それは、とても恐ろしい光景に思えた。毎夕のことのはずなのに、今日はいつもと違った。いつか彼女が壊れたときに迎えるであろう光景だ、と一瞬、ほんの一瞬考えてしまったせいだと思う。わたしは思わず泣いてしまう。彼女が壊れたときを考えて、ぶわっと大量の涙を流す。愛しい機械が消えることなんて、想像できなかった。いや、リアルに想像できる。でもそのときの悲しみは想像できないほど、悲しいのだろうなと思った。一生懸命泣いている自分もいたけれど、まだ彼女は壊れていないと冷静に思う自分もいた。頭の中がぐるぐるして、ぐちゃぐちゃだ。
 その後のわたしは、病気の発作みたいだった。唐突にリビングに置いてある棚から、睡眠薬を探し出したのだ。以前何故か眠れなくなったわたしのために、彼女が買ってきてくれたものだ。見つけた睡眠薬の瓶を開くと、一気に逆さまにして口一杯に睡眠薬を含んだ。そしてコップに水を注いでごくごくと飲み干す。睡眠薬が喉を通る感触がした。なんだか愉快でうふふっ、と笑った。笑いながら大きな音を立ててリビングに寝転ぶ。綺麗に磨かれた床だから、汚れる心配はない。だから安心して倒れる。うふふっ、ともう一度笑った後、目の前が真っ白になった。
 また、ぱっと目を覚ました。なんだか体の節々が痛い。天国でも痛みって感じるのね、などと思ったけれどどうやら違うらしい。だってわたしの知っている、冷たい彼女の感触が額にあったから。腕を無理矢理動かして、その手に触れる。指も爪もあるけれど、その冷めたぬくもりは間違いなく機械の彼女だ。視線を窓の方にやると、優しく微笑んだ彼女が椅子に座っているのが目に入る。わたしの視線に気付いた彼女はゆっくりと口を開いて言った。
「目を覚ましたようで、何よりです」
「――わたしは自殺しようとしていたのに、止めたのね」
「お嬢様に止めるなという指示を受けていなかったためです。買い物から帰ってきたらリビングでお嬢様が倒れていたものですから、病気・怪我の際は手当てしろという指示を最優先させていただきました。お嬢様の隣に睡眠薬の瓶があったので、睡眠薬を服用したと判断し緊急を要するものと考え、私の可能な限り胃腸洗浄を。そのようなことをしていたため――」
 困ったような笑顔を浮かべて、申し訳なさそうな声色でおそるおそる言った。
「夕飯、掃除、その他雑用ができていないのです」
「……ずっと看ていたのね、馬鹿。今度自殺するときは止めないで頂戴」
「了解しました。それではお嬢様も目を覚ましたようですので、夕飯を作ってきます。お体の調子が万全でないようですので、軽めのものを」
 失礼します、と立ち上がろうとした彼女の服を引張った。寂しがる子供みたいで情けなかったけれど、そんなことはどうでもいい。ただ、隣にいてほしかった。それを理解したのか、彼女は大人しくすとんと座りなおした。「お腹が空いても知りませんよ」と冗談ぶったように言いながら。そうね、きっとお腹が空くわ、とぼんやり返した。胃腸を洗浄したからそりゃそうなるだろうけれど、不思議なことにお腹は減っていなかった。むしろ、なんだか胸が一杯だった。
「暇つぶしに、何か話でもして。童話でもなんでもいいから」
「そうですね、それでは、お嬢様を見つけたときのお話でもいたしましょうか」
 少しだけ、反応した。けれどそれを誤魔化すように平然と「初耳ね」と呟いた。正直言うと、本当はとても怖かった。でもとても聞きたい。今日聞かなかったから、きっともう二度と聞くことはないだろう、と思った。
「お嬢様を拾ったときは、そう。前のご主人様が亡くなったときでした。身寄りのない方でしたから私はご主人様の最後の指示どおり死体を処理した後、ひとりぼっちになりました。機械がこんなことを思うはずがないのですが、寂しい、と思いました。いえ、思ったと思います。……そのあとはずっと毎日家を掃除して、庭の手入れなんかをして過ごしていました。そんなある日、とても激しい雨の日でした、お嬢様がやってきました。コウノトリさんが、連れてきて下さったのです」
 ちょっと待って、それは可笑しいわ。私はコウノトリに落とされたはずよ、そんな言い方は変よ! と非難めいた視線を送った。彼女はわたしと目を合わせると、ちょっとだけ微笑んで続けた。
「今まで本当のことを言っていませんでしたが――コウノトリさんは、お嬢様を連れてきたのです。ちゃんとカゴに入れて、ベランダに置いていきました。コウノトリさんがずっとベランダにいるから、まさかと思いながら傘も差さずにベランダに出ました。するとコウノトリさんは、にやっと笑ってくちばしでカゴの中を指しました」
「……コウノトリが笑うわけないでしょ」
「はい、私もそう思います。でもたしかに笑ったのです。そして激しい雨の中、去っていきました。私はカゴの中に赤ん坊がちゃんといることを確認して、カゴごと抱きしめました。そして思ったのです。ああ、神様は私を見捨てなかったのだ、と」
 しばらくの、沈黙。ああ、ここでさっきみたいに軽く言えたらどれだけ楽になれるのだろう。「機械が赤ん坊を授受できるわけないでしょ」と。でも、これはあまりに、重すぎる。神から見捨てられたはずのわたしは、見捨てられていなかった。いやむしろ、愛されていたのかもしれない。機械の、彼女に。神様に。
「でも、なら。それが、本当なら」
 震える唇をかすかに開いて、ぎゅうっと柔らかく湿った枕を抱きしめる。
「わたしが母親だと、言えばよかったじゃない。それなら、わたしは」
「……機械が母親と言う事例は、聞いたことがありませんでした。ならば人々はどう思うでしょうか。機械が母親の、娘を。決して良くは思わないでしょう。それに、言葉は悪くなってしまうかもしれませんが、お嬢様のプライドに障ると思ったのです」
 娘、という言葉が彼女の口から零れたとき、わたしはさらに強く枕を抱きしめた。彼女は娘が近くにいながら、お嬢様と呼び、機械と呼ばれ、十幾年も過ごしてきたというのか。もどかしさでわたしならきっと、気が狂ってしまう。機械なのだから感情はないけれど、彼女のそんな十幾年を想像してとても、悲しくなった。愛してる人に、愛してると言えない十幾年。ああ、なんて、悲しい物語。
「――ねえ、機械」
「何でしょう?」
「わたし、あなたに心配されたくって睡眠薬を飲んだわ。あなたを失う未来を考えて、水で流し込んだわ。でも、もうわたしはあなたに愛されていたのね」
 気付かなかったわ、と呟いた。息が詰まる。気を抜いたら、泣きそうだった。でも一生懸命言葉を繋げる。
「今度また、自殺しそうになったら、止めて。わたし、まだあなたと一緒にいたいわ」
「了解しました」
 彼女は間を開けることなく、返事をした。わたしはいつか彼女を母と呼べる日が来るのだろうか、と考えた。ほんの一瞬のはずなのに、それがとても愛しくて、我慢していた涙が溢れた。慌てて腕で目元を隠したけれど、嗚咽が部屋中に響き渡って意味がない。彼女は何も言わずにわたしの隣にいた。暗い視界の隅に、窓が見えた。どうやら赤ん坊を届け終えたらしいコウノトリも見える。そのコウノトリが一瞬、こちらを見てにやっと笑った気がした。ああ、なんて嫌な奴! そう思ったけれど、そんなことも満足に呟けないぐらい、わたしはひどく泣いていた。


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