形状記憶少女

// 優しい人殺し

ぼくはようやく、この苦しみから解放されるのだ。
 ぼくは少し息を荒くしながら、茂った山の中を登る。 頂上は見えず、心臓の音が早くなるたび日々体を動かしていなかったことを痛感した。 額からじわじわと汗がにじみ、ゆっくりと頬に流れてくる。 袖で乱暴に拭き取って一度足を休めた。 自分の荒い呼吸だけが静かな木々の中聞こえる。 ――本当にこんなところに、人がいるのだろうか。 そんな今更なことを思った。 ネットの噂とメールだけのやり取りだけを頼りに、こんな偏狭な地に来てしまって。 でもぼくはもう戻れないところに、いる。 そして戻らないところにも、いる。 呼吸を整えて、もう一度頂上を見た。 実際は木々たちが重なり合い、近いのか遠いのかすら分からなかった。 それは目的地も同じことだった。 思わず舌打ちする。 もう日が暮れるのも時間の問題だ。 ぐずぐずしている暇はない。 そんなことを思って足をまた動かす。 動かした矢先のことだった。 前に出した右足が、今までにない感覚を掴む。 それは傾斜でなく、平地であった。 左足もその平地に足をやる。 目の前を見た。 そこは、先程見たときにはなかった場所で、 気づかないなんてことはどう考えても有り得なかった。 生唾を飲み込む。 噂は本当だったのだ。 今までとまったく違う雰囲気のそこに心臓が大きく高鳴った。 それなりに広い土地と、 そこに隅にあるロッジのような明りの灯った家と、 家を囲うように置かれた墓らしい石たち。 ぞわぞわと鳥肌が立った。
「やあ、いらっしゃい。ノゾムさん」
 十字架や単なる重石のような石を眺めていると、 どうやらここの土地の主らしい人物が現れた。 たしかにぼくがメールで名乗った偽名を知っていた。 本名や何かしら好むものと全く関係なく、 ただ希望という漢字から取った適当な名前だった。 予測は確実に不可能である。 ということで彼がメールのやり取りをした本人であることを確認した。 ぼくは頷いて、言葉を返した。

「ええ、そうです。初めまして、森の主さん」
「合ってたんですね、良かった。間違ってたらどうしようかと思いましたよ」
 悪戯に微笑んだ。 その様子はまったく話で聞いたことをしているような人だとは思えなかった。 ぼくも社交儀礼で微笑み返しておく。 それを見て彼はきびすを返し、ロッジを指差した。
「とりあえず、中へ入ってください。暗いですし、説明もしたいので」
「あ、はい」
 綺麗に整頓された部屋。 というよりも、必要最低限以外のものは何も見当たらなかった。 生理的行動の他に、彼がすることはただ一つだけしかないのかもしれない。 ぼくは差し出された茶色に濁った紅茶を飲む。 安物のティーバックから這い出たそれは、ひどく、不味かった。 口直しにと差し出されたクッキーを食べる。 味気なく、湿っていた。 自然と顔をしかめていたのか「不味いでしょう」と、彼は自分の紅茶を用意しながら言った。 穏やかな微笑みを、浮かばせている。 ぼくは困ったように首を傾げて、苦笑した。 彼もようやくぼくの向かい側の席に座る。
「つい、生活のことがおろそかになってしまうんです。 以前はちゃんとした葉っぱを使って紅茶をいれてましたし、 クッキーも自分で作ったぐらいです。 女々しいですよね。 でもこちらの生活に慣れてしまうと 仕事を優先してしまって、ね」
 仕事。思わず頭が反射的に反応してしまう。 それが行動にも出てしまい、大きく揺らいだ手から、紅茶の入ったカップが落ちる。 がしゃーん、と耳が痛くなるような食器の割れた音。 床に茶色の水溜りができてしまった。 木製だから、早くしないと紅茶が染み込んでしまう。 慌ててカップの欠片をどかそうとして、お約束だ。 指を切ってしまう。 そんなことより、と小さな欠片を取り除こうとすると、 その欠片を直前にして、手が止まった。 というよりも、止められていた。 もちろん止める人間なんて、ここに(あるいはここの地域一帯に) 彼しか、いなかった。 彼の手が、僕の手を掴んでいる。 天井から注がれる光の逆行で、彼の黒い形しか、見えない。 よくあることだ。 どれもよくあることだ。 ここで辛い過去を思い出して、そこにいもしない人物に、謝ることすら。
「ああああ、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「いえ、それよりも怪我を――」
「ごめんなさい、ごめんなさい!  わざとじゃないんです、手が、滑って、ああああ!  殴らないで、殴らないで、やめて、やめて!  違う、違うよお!  ぼくはあなたを拒んでるんじゃないんだよおおお!  ぼくは、あなたがぼくを殴って、その手に傷ができることを恐れてるんだ!  あああああ、だから、だから、殴らないでえ!」
「ノゾムさん、ノゾムさん」
 そこにぼくの恐れる声も、姿もなかった。 溢れた涙がこぼれて、紅茶と混じる。 ぼた、ぼた、と、涙の落ちる音がした。 ぼくのこんがらがった脳神経が、徐々にいつもの単純な造形へと、形を変える。 気がつけばぼくは彼に抱きしめられていた。 落ち着いた心臓の音が、耳に届く。 身体中に流れる。 安心しすぎて、涙が出そうだった。 既に流れた涙の分まで、溢れそうだ。
「赤ん坊は、心音、あるいはそれに似たリズムを聞くとやすらぐと言います」
「それでは、ぼくは赤ん坊なのでしょうか」
「そうです。ああ、悪いことを言っているんじゃありません。 人は皆、赤ん坊で始まるのですから」
 至極当たり前のように言った。そして、ぼくを離す。 彼の体温がとても心地よくて、それが惜しく思えた。
「さあ、説明をしましょう。時間はぼくらが思っている以上に、ありません」
 彼は両手を広げて、役者のように高らかに言った。 ぼくの指は彼に完璧な処置をされ、床に紅茶の染みはなく、カップの欠片ひとつなかった。 ぼくはぼくの指を、見る。 絆創膏がしわなく巻かれた人差し指。 あまりにも手際がいいから、ぼくはちょっとだけ呟いた。 「慣れてますね」と。 そして彼はやっぱり微笑んで、言うのだ。 「死体を扱うのですから、菌には一番注意しているんです」と。 至極当たり前のように言った。 だからぼくも、至極当たり前のように納得して、頷いて、笑った。
「ぼくの仕事は、簡単かつ短い言葉で表すならば、殺人です。 それはあなたもご存知でしょう?  なんせ、ぼくの数少ない友人を辿りに辿ってやってきたのですから。 でもご存知の通り漫画やドラマ、あるいは小説など創作されたもののように 依頼されて見知らぬ第三者を殺すのではありません。 依頼されて殺すのは、依頼者です。つまり自殺補助ですね。 この仕事がどれだけ重いものか、正直ぼくは未だわかっていないように思います。 でもわかってしまっていたら、きっとぼくはこの仕事をやめたでしょう。 だから今も、これからも、理解する気はゼロです。 限り無くゼロに近いのではなく、ゼロです。 ――殺し方は、至って様々です。絞殺、刺殺、撲殺、エトセトラ。 なるべく依頼者の望む殺人になるよう、心がけてはいるのですが、 なんせ感想が聞けませんのでいまいち、と言ったところでしょうか」
 彼は屈託なく笑った。死人に、口なし。彼の台詞に何よりぴったりだった。 意味の捉え方は大分変わるだろうけれど。 そこで彼は、一度話を止めて少し考えたように間を空けてからぼくに言った。
「質問はありますか?」
「――あー、いえ。あの、こんな質問馬鹿みたいですけど。 これって、犯罪ですよね、捕まったり警察が来たりしたことは、ないんですか?」
「そう考えるのは、当たり前でしょうね。警察は来たことはありません。 ……いえ、訂正します、警察は来たことはあります。ただ、警察としては来ていません。 一個人として、来ました。数えてませんけど、何十人かは」
 つまり、罪は問われたことはない、ということだろう。 小さく溜息をついた。世も末だなあ、と思った。 そんなぼくを見て、彼はやっぱり微笑んだ。 もしかしたら彼は、笑う以外の顔の表情を知らないんじゃないかと思うぐらい、いつも笑顔だった。 短い時間にそんな判断をしてしまうのはいけないだろうが、そう思った。 彼はさて、と言う。
「説明はこれだけです。あとは実際に回ってみましょう。百聞は一見にしかず、ですよ」
 細い人差し指を桃色の唇に触れて、目を細めて口元をつりあげる彼。 彼は美しい人だった。男性でその表現は可笑しいかもしれないけれど、そう思った。 親指を噛む。がじ、がじ。 かじりながら、山道をなんてことなく歩く彼についていく。 後ろにいる限り、彼の乱れる息の音は、聞こえない。 その細い体に似合わず、相当鍛えてるのだろう。 ぼくはすでに息絶え絶えだった。 親指を口元から離す。 つう、と爪と口に伝う唾液の糸。 彼が足を止めずに、ぼくに体は鍛えたほうがいいですよ、と言った。 殺すのも殺されるのもなかなか大変な仕事ですから、と笑って言った。 冗談でもなんでもないその彼のアドバイスに、ぼくは笑った。
 真っ暗な森の中を歩く。 頼りになるのは彼の持つ懐中電灯だけだ。 でも本当に頼りになるかはわからない。 なんせ今にも消えそうなぐらい、薄い光だし、たまにぱっと消えてぱっとつく、年代ものだし。 道の横に三メートルぐらいの感覚で置いてある墓石が、少し怖かった。 今から、という男がそんなことを思うなんて滑稽だと、自分で思った。 口を押さえて、笑う。 ぼくはちょっと興奮している。 喜んでいる、安心している。 この苦しみから抜け出せることに。 もう何の心配もないことに、ぼくは。
「ああ、目的地です」
 彼が後ろを振り返って言った。ぼくは緩んだ口元を引き締めて頷く。 そして間を置くことなく、その口元はすぐにだれることとなった。 だらしなく、口がぽかんと開く。 その光景には、圧倒された。 気持ち悪いとか有り得ないとか、そんなことは考えられなかった。 考えられないぐらい、圧倒した。 そこには驚くほど大きな木があって、そして驚くほど多くの――死体が、吊り下がっていた。 照らされた懐中電灯の薄い光では一部しか見えないが、 月明かりに照らされ数え切れないほどであることがわかった。 死因は首吊りではないだろう死体もゆら、ゆらと、揺れている。 風が死体を揺らして、腐臭を運び、木々をざわめかせていた。 ぞくぞく、と鳥肌が立つ。 乾いた唇をなめる。 彼に出会う前にも思った。 もう下には戻れないと。 ぼくはここでそれをもう一度、思う。 もう戻れない、戻らない。
「うふふ、すごい、でしょう? ぼくも初めて見たとき、とてもびっくりしたのを覚えてます」
 そっと彼は幹に手を触れる。死体が彼を囲む。 恐れた様子のない彼は、月明かりを眩しそうに手で遮る。 よくわからないけれど、彼にとってとても大事な場所なのだろう、と思った。 息が自然と荒れてきた。ぼくは興奮しているようだ。 ぼくは幹に両手で触れて、耳を押し当てる彼の後ろを、そっと近づく。 衣擦れの音も、全部木々のざわめきに隠れる。 そしてとうとう、彼の美しい体に触れた。 触れたというよりも、掴んだ。 首を、両手で、ぎゅうっと、掴んだ。 瞬間、ああ! ぼくはなんてことをしてしまったんだ! と思った。 手も離そうと思った。 けれどそれは、彼のあの、優しい手で封じられた。 両手でそっと両手を支えられる。 苦しいはずなのに、その仕草は柔らかく、優しかった。 ぼくはいつの間にか涙を流しながら彼を殺した。 事が済んだ後、ぼくは溜息をつく。 汗がだらだら流れているのがわかった。 初めての殺人に、もう立ち上がる気力も残っていなかった。 木に全身を預ける。 気付けば、もう朝焼けが何処からか覗いていた。 もう一度溜息をつこうとすると、人影を見つけた。 何処から現れたのか知らないけれど、中年のくたびれた男だった。 その瞳に宿るのは、絶望。 ぼくはぞくぞくする。 そして、もう一度頭に巡る言葉。
ぼくはようやく、この苦しみから逃れられるのだ。
あの人を殺さずに済む、優しい予感。 ぼくの愛しい、ぼくを殴って蔑む、ぼくを憎む、ぼくの大切な人。 その人の代わりに殺された彼、殺されるだろう彼。 ぼくは立ち上がって、名前も知らない彼に微笑みかけた。 世界は優しさに満ち溢れている。


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