// まぐろの夢

 あと一週間で彼女は死にます、とありがちな感動物語でも予想させるような台詞を 医者は神妙な顔つきで言ってのけた。 まず僕はその台詞を聞いたとき、横の壁にかけてあったカレンダーを思わず見てしまった。 今日が何日か、何日で彼女は死ぬのか。 大抵の人間ならば、このタイミングにはそれを知るためにカレンダーを見るだろう。 けれど僕は今日が四月一日ではないことだけを確認するために見た。 もし四月一日だったら思わぬ宣言に僕が涙した瞬間、 医者がケタケタ笑って「エイプリルフール!」などと叫ぶんじゃないかと思ったのだ。 ついでに後ろの扉から彼女が嬉しそうな表情で、騙されたわねと言わんばかりに出てくる。 けれど幸か不幸か、今日は四月一日ではなかったし 彼女が病院に面倒臭がって来ないことを僕が誰よりも承知している。
 もしやお約束すぎてしまうが夢じゃないだろうな。 試しに目をこすってみたが、目の前の現実とカレンダーは微かにも変化しなかった。 諦めてカレンダーからゆっくりと神妙な顔つきをしたままの医者に視線を戻す。 僕は人の心情を読み取ることはあまり得意じゃないが、医者は同情の瞳をしている気がした。 そんなことよりも医者の神妙な顔つきが顔のバランスを上手い具合に崩したおかげで 可笑しくて可笑しくて、今にも噴出しそうなのを懸命に我慢している僕だ。 我慢しすぎて肩が小さく震えたが、帰りで医者の横に立っていた看護師さんが 立ち話で「あの人泣くのをこらえてたわ、かわいそうに」などと話していたのを 聞いたのでバレてないことにほっと一安心した。 結局噴出すのを堪えてたのが精一杯で、何のリアクションも取ることができず 病院を去ることとなった。他の患者さんだってシリアスにいきたいところを、 きっとあの医者の表情で邪魔されてる、と思ったぐらいだ。僕はそんなことを 考えながらぶらぶらと家にではなく、水族館へ向かった。最近の彼女はもっぱら 家より水族館のほうにいるからだ。
 案の定今日も彼女は水族館の主をしていた。 昔の大切なアルバムでも開いてるように、ちょっと汚い大きな水槽を眺めていた。 彼女は死ぬときもああやって水槽を眺めたまま 死ぬんじゃないだろうかと思うぐらい、じっとしている。 それでいつものことだから、水族館の人もお客さんも誰も気付かずに通り過ぎていく。 ようやく閉館時間になり誰かがお客さんもう閉館ですよと声をかけて気付くのだ。 「し、死んでる……!」ううん、ドラマチックだ。 でもそれはあるいは僕がやる羽目になるかもしれないのか。 非常に悩ましい事態じゃあないか、このやろう!
「やあ、彼女。一人?」
 そんなことを考えながら、軽い調子でナンパしてみた。 本当に嫌そうな表情をして彼女は振り返る。 きっと半径三メートルの人までなら彼女の 「いや、ちょ、おま。ほんとお前、わたしから三キロメートルは常時離れとけ」と 言わんばかりのオーラは把握できると思う。 でもすぐに呆れた表情に修正して、また水槽へと視線を戻しつつ尋ねてきた。
「何日で死ぬって、医者言ってた?」
「七日だったかな。分で直せばえーっと、二十四時間かける……」
「一万八十分」
「おお、有難う」
「入院とかいう話出さなかったでしょうね」
「診断で一泊二日の入院すらも暴れて拒んだ君を、誰が無理矢理入院させようか」
 なんで自分が死ぬって知ってるんだ、などというくだらない質問は投げかけない。 僕は馬鹿ながら、いや馬鹿だからこそ、自分のことは自分が一番良く知っているということを 何より信じきっている。それこそサンタクロースがいることを信じてやまない幼稚園児以上に。 僕は彼女の隣に並んだ。青い世界はゆったりと広がっていた。
「何を見てるんだい?」
「まぐろよ」
「なんでまぐろ?」
「……まぐろは眠らないのよ」
 だからなんだよ。その一言を言うのは簡単である。 だがしかしその後のすねた彼女の対応は大変難しいのだ。 ゆえに僕は当たり障りのない相槌を打つ。自分で話題を振っといてなんだけども。
「へえ」
「つまり、夢を見ないの。見れないのよ」
 何が言いたいのかわからなかった。でも彼女のほうを見てみると、 そういえば目だけがまぐろを追うためゆっくり動いていた。 当のまぐろは不細工な顔立ちで、どこか間抜けなオーラを纏いつつ泳いでいる。 見られてようが見られてなかろうが、とにかく俺は泳いでいるんだいっとでも言うような。 水族館にしてはやけに魚の数が少ないため、よく観察できた。
「だからわたしは思ったの。まぐろは死ぬことを夢見てるんだなって」
 彼女は少し演じめいた口調で呟いた。 頬と手を冷たい硝子にくっつけて、ほんのすこし涙ぐみながら。 彼女の泣く場面はなんだか母親とか父親が泣くところみたいに、見ちゃいけない気がした。 思わず視線をそらす。でも彼女が僕の顔を両手で掴んで、無理矢理自分の方へと向かせた。 すみません、首がごりって鳴ったんですが。あと、手が冷たいんですが。 強制的に方向を定められた視線を彼女にやると、彼女はもう泣いていなかった。 見間違いだったかと思ったけれど頬に少し涙の跡が残っていたから、 見間違いではないことを確認した。彼女の唇がゆっくり動き出す。
「まぐろは夢を見ないの。だから死ぬことを夢見る。 わたしの勝手な予想でしかないけど、きっとそうだわ。 何度も何度も夢を見てたのにね、死ねば生きたことも 夢みたいにあっさり消えちゃうことに、気付かないで。 わたしも気付かなかった。死ねば夢を見れるんじゃなくて、死ねば生きていたことが夢になるの。 馬鹿だわ、気付いてなかった。本当に、馬鹿」
「死ぬのが怖いの?」
 僕の頬から冷たい両手を離しながら、彼女は笑った。 いつでもわけのわからないことを言って、理解できない僕にいらついて 呆れた表情ぐらいしか見せない彼女が笑い、言った。
「そんなんじゃないわ。ただ」
 ただ?
「ほんの少し、惜しく思っただけよ」
 ここで僕が何を惜しく思ったかを聞くなんて、泣いている赤ん坊を 泣き止ませる以上に簡単なことだ。 でもそれ以上にそんなことは野暮以外の何でもないことでもある。 僕はなんだか笑う彼女を抱きしめたくなった。 周りに丁度人気もないし、ちょっとぐらいいいかな?  というか、彼女が嫌な表情しようがなんだろうか抱きしめてやる。 いや、これは決して彼女があまりに可愛いからとか性的興奮が湧いてきたからとか そんなんじゃない。ただ笑う彼女の顔が 医者やあのまぐろ以上にあまりにひどいから、隠してあげるだけさ。


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