// 零

「零とは、ある数からそれと等しい数を引いたときの数。整数に含まれる。ゼロ。で、
(と、ここで僕は一旦彼女を止めた。何故なら僕の記憶する辞典の零の項目には、 たしかもう一つ何かしら意味が載っていたと思ったからだ。 だがしかし彼女にそれを指摘すると呆れたような表情をして、 あるいは死んでしまいそうなほど面倒臭そうな表情をして"分かってるわよそんなこと"と でも言いたげに目を細めて眉をしかめて溜息をつくのだ)
もう一つ意味があったけれどあたしの思うゼロとは関係がないから省略。 知りたければ自分で調べなさい。 とまあ、以上が大辞泉の言う零の意味。 でも零は数字でもあるわよね。でも数字はあくまで存在するものを数えるもの。 つまり存在しないものは数えられない。 でも零という存在しないものの数字は存在する。 これってどういうことなのかしら。
(でもが多いなあ、と思っていた僕はようやく自分の出番が来たと思い、口を開いた。 だが彼女は僕が口を数ミリ開いたところで"お前の出番はまだ先だ"とでも言いたげに きつい視線を浴びせてきた。僕があくまで呼吸をするために口をほんの少し開いたら、 また彼女は同じような視線を浴びせたのだろうか。 そんなことされたら僕はきっと腰が抜けて立てなくなるだろう、と思った。 でも彼女は色んな世界の全てをわかりきってるから、そんなヘマはしないだろうとも思った)
零は一体、何のために存在するのかしら。 ――もちろん、零という存在しないものを表すためでしょうけど。 なんだかとても可哀想だわ。
(零は決して彼女に可哀想だと思われたくもないし、きっと彼女もそんなことを考えてもいないだろうと 僕は思った。でも彼女の表情は少し真面目だった。いつになく真面目で、ちょっと気持ち悪かった。 きっといつも不機嫌な表情でばかりこっちを見ている彼女を見ているせいだと思った)
零は何もないということを表すこと以外何もできないのね。 それは数学者とか数学の教師とか物理の研究者とかそういうものに まったく関係ない人でも零と言うはごく一般的に使われてるのに。 零がないと世界中は大変なことになるだろうし、あたしとあなただって大変なことになる。 零は便利で大切なもの。そんなことはわかりきってる。 それでね、あたしが言いたいのは零を作った奴はえらいとかそんなんじゃないのよ。 いえ、もちろん零を作った奴はすごいと思うわ!
(と、僕はこの発言にがらにもなくびっくりした。 彼女が人を褒め称えるなんて二年に一回あるかどうかなのだから。 ちなみに僕は彼女と生まれてこのかた片時も離れずにいたが、 自慢じゃないが(本当に自慢にならないなと思った)褒められたことは一度もない)
でもね――それ以上じゃないわ。 あくまで存在しないものを存在するものとしてしか、存在しない。 馬鹿な人間が国動かしたり働いたり食べたり排泄したり寝たり 呼吸したり生きたりして、存在してるのに。 それはあんまりにももったいないことじゃないかしら。 あたしは、零になってあげたいわ。 そして零はくだらないけど世間が一般的にいう幸せなあたしの生活を蝕んでくれれば良い。
(優しいんだか残酷なんだかよく分からない台詞だ、と僕は思った。 そして彼女は僕に涙を見せて笑った。ドラマティックといえばドラマティックだけれど、 彼女だとホラードラマにしかなるまい、と僕はシリアスな展開だというのに思ってしまった。 僕は思うだけしか出来ない)
ねえ、だからあたしを零にして。
(甘ったるい声で、シャンプーのミントの香りがするぐらい近くで、彼女は囁いた。 僕はそれにすこし震えた。それは怯えとかではなくて、この上ない甘美な幸福で)
あなたなら、できるんでしょう。
(僕は泣きながら笑いながら優しく近づいて僕の両手を取って懇願するような瞳を見せる、 そんな彼女を初めて見たし嫌悪感も抱いた。僕の彼女はいつだって強気で高飛車で、 僕を圧倒させるオーラを纏っている、美しい人なのだから。 でも僕はそんな彼女に幸福すら感じさせられた。 いや実際はそんな彼女にではなく、そんな彼女の台詞に、だろうか、と僕は考える。考える)
だめ? だめかしら。
(駄目なことなんてあるもんか! と僕はここで調子よくいえる奴じゃなかった。 そのかわり僕はなにも言わずに黙って頷いた。それはだめという意味ではなく、了承の意味での頷きだ。 僕は彼女が包み込んだ両手を解放させて、そこにはないナイフのようなものを空に形どった。 それで何が現れるというわけではない。これはあくまで雰囲気を掴むようなものだ)
それであたしは零になれるのね。そしてあなたはそれであたしを零にするのね。素敵だわ。
(自分が零になるということを知りながら素敵だといえる彼女こそ素敵だ、と僕は思った。 でも僕は彼女がいなくなることをとても悲しく思った。 何故なら彼女はきっと認めてくれないだろうけど、僕の友人であり恋人であり母だったのだから。 僕はそのかたどったエアーナイフを逆手で掴むように持った。 彼女はうっとりとした表情で、でも瞳はとても真剣に存在しないナイフをみた。 そして僕は思い切り彼女の胸へ突き刺した。存在しない零のナイフは、彼女を零にする。 彼女は刺されたはずはないのに胸に穴を開けて(僕が予想したよりナイフは長かったようだ) ゆっくりを後ろに倒れこんだ。彼女の胸の穴からは、赤い血ではなく虹色のめぐるめく なにかが零れ出ていた。僕は彼女に近づくため、ためらいがちにそれを踏んだ。 僕が踏んだ虹色はセピア色へと変化していくのがわかった。 そして僕は彼女を見た。彼女はどうやらまだ零にはなっていないようだった。 彼女は優しく僕に微笑みかけて言う)
あたし、意外とあなたのこと好きだったわ。 だってあなたはあたしの友人で恋人で子供だったんだもの。
(僕はその発言にびっくりしながら、僕も同じことを考えていたよと答えた。 彼女はそれに嬉しそうに笑った。どうやら痛みは感じてないようだ) あくまで、ね。あなたは言葉で言い表せないぐらいあたしの大きな存在だった。 あたしを零にしてくれたってこともあるけど、そんなことも関係ないぐらい。 あなたは大きすぎたから、こうなったっていう考えもあるでしょうけど。 でもこうなったんだから仕方がないわ。仕方がないって言うのも変ね。 だってあたし、今の状況にすごく満足してるもの。
(君はやっぱり零になるまで変わった人だね、と僕は言った)
あなたを作ったあたしですもの。
(僕は彼女の発言に納得した)
もうそろそろ、脳細胞が限界を訴えてるわ、さようなら。
(なんだかさっぱりとした男らしい(こんなこと彼女に言えば怒られるだろう)挨拶だった。 でも僕は男らしくないから、女々しくほんのちょっぴり涙を流してさようならと言った。 彼女は最後に起こったような表情をして言う)
ゼロ、泣くんじゃないの!
(きっとさようならで終われば綺麗な終わりかただったろうにと僕ことゼロが思っている間に、 彼女は死んだ。出血多量とかではなくて、精神的な自殺みたいなものだ。 彼女はまるで自分が望んだかのように死んでいったけれど、 本当は僕のためだということはわかっていた。 きっと気付いておきながらそのままにした僕は残酷だ。 でも結局彼女である主人格は僕を別人格ということを認めなかった。 それは僕にとって喜ばしいことでも、きっと彼女の両親とか彼女にとっては悪いことだったのだろう、と思う。 でも彼女は満足しているのだから、いいということにしよう。 だって、子供が母親の幸せを願うことも、母親が子供の幸せを願うことも、当然だろう?)」


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