// 美味しい野菜炒め

 彼がいなくなって、二日ぐらいずっと泣いていた。 実際のところは一日半で涙は枯れてしまったけれど、 私の中ではまだ涙で流しきれないほどの彼の思い出が詰まっていた。 決して思い出を水に流したいわけじゃないけれど、 そうしないと脳細胞からあふれ出す色んな感情に対処できないんだ。 元々彼と二人暮らしだったから誰も止める人がいなかったから、 私は遠慮せずわんわん泣いた。 何かを食べた記憶も飲んだ記憶もないけれど、無意識に何かしらは 口にしたと思う。 それでも眩暈がする。
 お腹が減った。喉が渇いた。 私は泣くのを中断して足の踏み場のないリビングをよろよろと横切った。 本当に物が足の入る隙間もなく散らばっていたから、 仕方なく物を踏んでいった。 冷蔵庫の中に飲みかけのスポーツドリンクが入っていた。 それを開いて一気に飲んだが、これが彼の残したものだと思い出すと また泣けてきた。 世界の全てが彼に通じるような気がして仕方がなかった。 通じたとしてもあまりに一方的すぎる。 神様、これは哀れすぎやしないか! 鼻をぐずぐず鳴らしながら冷蔵庫の中に入っていた野菜で ぐじゃぐじゃに野菜炒めを作る。
 油ひいたっけ? ああ、ひいたひいた。 野菜はちゃんと食べられるものだったかしら。 ああ、きっと大丈夫。 今の私ならそんなものも気にせず食べられるさ。 それに何より一昨日買ったばかりの野菜だった。 泣きながら野菜炒めを作って、ちゃんと作れているかどうか気にする。 なんて嫌な女だ。 自分でも悲しんでいるんだかよくわからなくなってきた。 でも胸の中にどかん、と何か重いものがあるような感覚で一応悲しんでいるのだとは思う。 けれど体はいつもどおりの生活を望んでいる。 私はどうすればいいのだろう。 私は野菜炒めを皿に移しながらまたぶわっと泣き始めた。
「ちょっと、いるの?」
 どんどん、と鈍く扉を叩く音。 瞬間彼かと思ったが、死んでいるのと彼はあんな乱暴じゃないことを思い出して がっかりした。 でも違う人の心当たりはあったから扉を泣きながら開いた。 幼い頃からの友人だった。
「すごい目が腫れてる。あんた、お嫁前なんだから顔ぐらい綺麗にしときなさいよ」
 呆れたように言って、ポケットからハンカチを出して私の顔をごしごし拭いた。 その動作はひどく乱暴で痛い。 彼ならもっと優しく丁寧に拭いてくれるだろうに。 友人の優しさすら迷惑に感じる自分が嫌になりながら、また新しい涙を流す。 彼女はもうこれ以上は意味がないとわかったらしく、ハンカチを私に押し付けた。
「別にね、あいつがいなくたって元々一人暮らしなんだから、生活できるでしょうに」
「そういう問題じゃない」
「わかってるわよ。でも慰め方が他に思い浮かばなかったの」
「自己中」
「うるさいわねブス」
 そこまで言って、私は部屋に戻りながらまたぐずぐずと泣きはじめた。 彼女は部屋に上がったら、目の前に置いてあった野菜炒めを何も言わず食べ始めた。 それは私のだ。彼女が来たせいでまだ一口も食べていなかったのに。 でも何も言わず私は泣き続けた。 友人も何も言わず食べ続けた。 全部食べ終えた頃にはようやく、私も彼女も落ち着いていた。 いや、彼女はもともと落ち着いていただろうけれど かなりお腹が減っていたらしく炊飯器のごはんもよそって食べてたぐらいだから きっとお腹は落ち着いたことだろうと思う。
「でさあ」
 爪楊枝でじーじーやりながら言う。親父か。
「もうアイツのことは忘れるかどうかしたほうがいいよ」
「無理だよ。本気で好きだったから」
「そんなことはいくらでも言えるよ。女の"もう私一生恋しない"ぐらい頼りない発言だ。 忘れられない、じゃなくて忘れるの。オーケー?」
 オーケーじゃない。オーケーになんかなってたまるものか。 結局のところ何よりも、私自身が認めたくないだけなのだ。 認めてたまるものか。私は彼女と違うのだ。 あるべきことはあるべきことでちゃんと対処できる。 でも私はこんな屈辱的なことを認めることはできない。
「……だって、信じられる? 彼が性転換して、知らない男に奪われたなんて」
 私は最後の野菜炒めの欠片を口に入れながら、ぼやく。 とっくに冷めていたけれど、酷く美味しく思えた。 目の前の彼女は苦笑するだけだった。


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