// 猫屋

 夏の登校日だ。汗で湿ったセーラー服を仰ぎながら、コンクリートに舗装されてない田舎道を歩いていた。 左右に構えるのは何処までも続きそうな青々と茂った田んぼ。 幸い終わりはみえるけれど、そこには山と数軒の家がぽつりとあるだけだ。 いくら歩いても代わり映えしない景色を見やりながら、 顔馴染みのアイスキャンディー屋さんからもらったアイスを舐めながら歩き続ける。 アイスはソーダの味で、いつもと同じ味がした。 飽きるとかそういう次元を超えた、そんなアイスキャンディーが好きだ。 今度はオレンジを食べよう、とか太っちゃうな、とか思うのも楽しかった。 下を俯きながら、熱い日差しに照らされる。 あまりの暑さに目の前が歪む。 額から、首から、じわりと汗がにじむのを感じた。 その汗で身体にべったり張り付く髪が邪魔だ。 耳にはセミの声が張り付く。五月蝿い、うっとおしい。
 そのうざったいセミの声に紛れて、何処かから音がした。 風鈴のような、ちりんと小さな涼しい音。 風鈴を飾ってあるような家は、聞こえる距離にあるほどの場所にはない。 ゆっくりと汗を垂らしながら顔を上げた。 目に入ったのは、真っ黒い生物体。 二つのとんがった山型の耳と、二つのぱっちりとした黄色い瞳。瞳の真ん中には細長い黒目。 体は綺麗に整った黒い毛並みがあって、後部には長細い尻尾が生えている。 全体的にシンプルな美しさがあった。 ああ、つまり簡単に言えば――黒猫だ。 首には黒い毛並みによく映える赤い首輪がついている。 そこに小さい鈴のような物がついていた。 目が悪い私には、目を凝らしてようやくわかった。
 細目でその上品に道に座っている猫を見ていると、目に汗が入った。 痛みに目をこすり、涙を流す。 そうしていると、セミと鈴の音とはまた違う音が聞えた。 それは音と言うよりも、声。 黒猫の声だ。 ミャア、と一声鳴くと動き出したのが分かった。 鈴の音が動いて、大きくなったからだ。 追いかけなきゃと私は何故か思った。
 昔からそれなりに猫好きの私は、猫を見かけると追いかける癖があった。 鬼ごっこのようににひたすら、でも近づきすぎないよう。 人間関係みたいに一定の距離をとっていると、猫は警戒しない。 いや、もちろんストーカーしすぎて茂みに逃げ込んでしまう場合が多いけれど。 それでも出来る限りまで見ていたいんだ。 瞳を開けて、目の前で真っ直ぐ走り始める黒猫を追いかけた。 歩いていては、追いつかない。私は軽く走り出した。 アイスが溶け出してゆく。
 ころころ転がる石を踏みつけながら、のろのろと付いて行った。 たしかこんな映画があった。小学生のころに見た、猫の映画。 猫が喋ったり、猫の国があったりなんてする(たしかあれはジブリだったっけ?)ファンタジーな奴。 捻くれていた私は口ではせせら笑い、心ではこんなのがあればいいのに、と思った。 ヒロインが猫になるか迷う場面もあったと思う。 もし私がヒロインだったら、迷うことなく猫になっていた。 寧ろ何故彼女が迷っていたのかとさえ、悩んだ。
 ふらつく足がたまにからみそうになりながら、私はぼんやりする頭で追い続けた。 苦しくて、泣きそうになる。別にこれは強制ではないからやめればいいだけなのに、と私は思う。 それでも休むと、猫はすぐに見失うだろう。 あの猫を見失うことがどうも惜しくて、私は追いかけ続けた。 目の前もぼんやりしかけたとき、ずっと真っ直ぐ走っていた猫が突然横に曲がった。 慌てて私も曲がると、見覚えのない風景が広がっていた。
 町並み、というよりも商店街。 江戸時代みたいな、木造立ての平屋が左右に並んでいた。 けれど人のいる気配はなく、ただ不気味だ。 障子張りで引き戸の家なんて、こんな田舎でももう少ないのに。 せいぜい引き戸だとしても、くもりガラスぐらいにはないっている。 猫は私を待ち伏せていたかのように、振り返りながら止まっていた。 けれど私を見つけると、また歩み始めた。 私はゆっくりと猫を追いかけてそろそろと、足を進める。 しばらく歩いていると猫がまた目の前で、ピタリと止まった。
 唯一玄関が開放されている店で行き止まりだった。 見上げると大きいぐねぐねとした看板に猫屋と書いてある。 字は機械的という言葉からかけ離れた感じだった。 下手というわけではない、ただ、生きていると思った。 それにしても、猫屋? 猫専門のペットショップかなにかだろうか。 でも、こんなところで?  黒猫はその看板を一瞥してから、また歩き出した。 その店の中へと入っていく。
 あ、と声を出そうとする前にその声は詰まった。 店の中から、黒猫と入れ替わりで別の猫が出てきたのだ。 先ほどの黒猫ではなくて、ぶちや白や茶色や、三毛。 色とりどりの、猫たちが。 そのあまりの多さの数に私は言葉を失い、暑い日の中鳥肌さえ立てた。 ミャア、と異口同音に猫たちが言う。 ホラー映画の撮影所にでも迷い込んでしまったか。 頭が混乱する。足が震える。 逃げようとしても、後ろから声が聞えるところから囲まれたようだ。 猫好きと言っても少々つらいシーン。 おそらくこんな不気味な場所ではなく、おばあちゃんの家などだったら 私は喜んでその猫たちにしがみついただろう。 そんな場面を仮定したところでどうにもなるまい。
 そう思いながらも頭の中で今度は猫たちに身体を食いちぎられる場面が浮かぶ。 確か以前猫だかに指を食いちぎられた事件があった。 だからきっとこれだけ数が集まれば私のような奴も簡単に――。 ぞくりと背中から何かが這い上がってきた。 叫ぼうと思った。 だが、また声が詰まる。
 猫の輪が途切れた場所から、人が来たのだ。 大抵小説や映画ならば有り得ないぐらい怪しかったり、死ぬほど美人だったりする。 だがその人はまったく常人だった。 オーラも何もない、常人。 ただ服装が男ものの紺色の浴衣がやけに似合う、というぐらいが特徴だ。
「こんにちは」
 彼は挨拶をしてきた。 あまりに今の場にあわず、ほんのすこし頭に来たが冷静に返した。
「こん、にちは」
「中学生? 近くの子かね」
「はい、その、猫を追いかけてきたらここに来て」
 猫か、と彼は呟く。 その場に猫が多すぎてどれかよくわからないだろう。 それでも一応一回り見て、微笑んだ。
「そうか、連れてこられたんね」
 連れてこられた? さっきの私の言葉を聞いていなかったのだろうか。 私は思わず訝しげな顔をしてしまった自分に気付いた。
「君を連れてきたのは、白い猫かね。それとも黒い猫か、それとも他の?」
「いえ、黒猫です」
「そうか」
 納得したように頷いた。頭がくらくらする。 一度瞬きして彼をもう一度みた。 二十代ぐらいだろうか。それとももっと若いか。どちらにしても童顔だ。 顔立ちはそれなりに綺麗だが、何処か不自然だ。 何故だろう、と思うと汗をかいていない。 この暑い中汗をかかないというのは可能なのだろうか。 あまりにじっと見つめていたらしい。 彼はにっこりと笑って言う。
「とにかく中へいらっしゃい。暑いだろう」
「はあ」
 思わず頷く。持っていたアイスが溶けて、ぼとりと地面に落ちた。 それを合図に、猫が一匹鳴く。


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