// 童話姫

 私はとても彼が好きだった。 いや、好きなんだ。 だからこそ、私は何を選ぶべきか。 誰かに教えてほしかった。 誰でもいいから教えてほしかった。 彼はどんな人だったろうか。 私は思い出す。 確かとても生意気だった。 いつでも私を苛めて、怒るとそれを笑う幼い人。 けれどたまに微笑んで、私に手を差し伸べてくれる人。 本当はとても優しい人だと知っている。 何故なら彼はいつだって私を見ていてくれた。 危なっかしい、細い糸を紡ぐような私を。 紡ぐところを間違えたら、すぐにでも教えてくれた。 その方法は決して優しくはなかった。 つまり、分かりやすくいえば乱暴だ。 けれどそれは私自らに気付かせるものであって 嫌いとかうざったいとかそんなバカみたいな理由ではない。 それをわかっていたから、私は彼を嫌えなかった。 逆にありきたりな少女漫画みたいに、私は惹かれていく。 つまらない少女漫画以上につまらない展開。 それだけで充分だった。 けれどいずれそんな展開には終わりが来る。 それを私は知っていた。 彼も知っていた。 だからこそ、そんな日常を愛していた。
 私はもう、日常が壊れる前の日のことは、もう忘れた。 ぼんやりと曖昧にしか思い出せないけれど 確かに幸せだった、と思う。 それを一生懸命忘れようとしたから、忘れた。 でも多分私は忘れたと勘違いしてるだけで覚えているのだ。 何かの本で、人間は忘れることはできないと書いてあった。 けれど引き出すことができないだけだと。 きっとその通り。 いつかその引き出しが突然開くことを、私は日々恐れている。 もう二度と開かなければいい。何故ならそれはパンドラの箱。 開けば、いつの日かの希望に満ち溢れた日常に 私は絶望した日常を送ることになるのだから。 けれど、それは間違いだった。 そんなことをしなくても、絶望した日常はそっと私に寄り添うのだから。
 一日が過ぎるたび、彼の体がどんどん衰えていくのがわかった。 私と同い年とは思えない深い皺が、どんどん体に刻み込まれていく。 わずかにほっそりと目が開いているが、果たして見えているのかは定かではない。 そして骨の形があらわになっていく。髪の毛が抜け落ちる。 私は泣きたいと思う。
 ある日私はとうとう我慢ができなくなった。 いつの日かの彼との会話を思い出す。 パンドラの箱を小さく小さく開けてしまう。
「葉っぱの絵を描いて、病人を生き残らせるみたいな話あったけど」
 と、彼は言った。 そして彼は否定した。
「俺は嫌だよ、あんなの」
「どうして?」
 私はびっくりして、訊ね返した。 彼は弱く微笑みながら言う。
「ずっとあの葉っぱは落ちないか落ちるかなんて 冬の間ずっと心配してられない。いっそ、殺してほしい。 お前は、殺してくれるよな」
 冗談なのかわからなかった。 でも私は頷く。 今の彼との関係を壊したくなかったのだ。
「うん、絶対殺してあげるよ。好きだもん」
 その後ありがとう、と彼はお礼をいったっけ? それともやっぱり、と彼は笑ったんだっけ? いや、もういい。 後は思い出さなくたって、もうこれで私の行くべき道は決まった。 教えてくれて有難う誰か。 いや、その誰かは、彼であって。
 私は彼のいる部屋に入る。 眠る彼。 その彼の体を踏み敷く。 右手にはナイフ。 何処で手に入れたっけ。 そんなのはどうでもいい。 私はそのナイフを振り下ろさなければ。 振り下ろして、振り下ろして、彼を殺す。 それが彼の望み。 そして私が幸せになるたった一つの方法。 私は右手に持っていたナイフを、両手で持つ。 そして思い切り頭の上から彼の胸へ、ナイフを振り下ろす。 そういう予定だった。 けれど、そのナイフは上手く動かない。 頭の上に両手で構えたナイフは、がちがちと震える。 早く早く早く。 下ろさなきゃ殺せないじゃないか。 下ろさないと、私は殺せずに、またあの日常に戻るじゃないか。 冷や汗が掌へ額へ全身へ流れる。 そして、ナイフが滑り落ちた。 鈍い音を立てて、刃から、彼の顔の横へ。 突き刺さりはしなかった。 そっと寄り添うように顔の横へ落ちた。
 私は思わず泣きかけた。 私は選択したけれど、運命はそれを選択しなかった。 間違いではないけれど、合ってはいなかった。 けれど涙は流れない。 かわりに、溜息をつく。 深い溜息。 そして、彼の寝ているベッドから降りる。
 そういえばと私は思い返す。 彼と人魚姫について話したこともあった。 そして私は以前の貸しだと言わんばかりに、頼むのだ。
「人魚姫あるじゃない。最後は泡になるっていう話」
「ああ、王子殺せば人間になるけど、愛してるから殺せなかったって奴?」
「そう。だから私ももしかしたら君を殺せないかもしれないけど。 それでも許してくれるよね」
 そして彼は笑った。 それは拒否なのかなんなのかはわからなかった。 けれど、続く言葉はなんとなくわかる。 "好きにすればいい"と。
ごめんなさいごめんなさい。
私は決して貴方が愛しいがため、殺せなかったんじゃないけれど。
ごめんなさいごめんなさい。
私は決して貴方が愛しいがため、ナイフを振り下ろせなかったんじゃないけれど。
ごめんなさいごめんなさい。
それでも貴方は許してくれますか。
ごめんなさいごめんなさい。
許してくれなくてもいいです。
ごめんなさいごめんなさい。
生きていてください。
 ナイフをそっと手にとる。 自分が人魚姫にもなりきれない役者だと 思い知らされながら舞台をゆっくり降りるのだ。 彼の部屋の扉が、ゆっくりと閉まる。

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