// 美しい世界

 彼女は目が見えなかった。 それは生まれつきだったのか 何かしらで失明したのかは僕は知らない。 けれど目が見えない、という事実に何も代わりはないだろう。 それでも彼女の声はいつでも明るかった。 そして、彼女はその明るい声で言う。
外の世界はいつ見られるのかしら。
 彼女はとても楽しそうに、あるいは嬉しそうに呟いた。 何度も何度も呟いた。 自分に尋ねるように、あるいは僕に尋ねるように。 いつかかならず見れると、確信した声色で。 僕は彼女の目が見えるようになるかなんてわからないから 曖昧に笑って、そうだねとわけもわからず相槌を打った。 彼女にそんな僕の笑みなんて見えないから 本当に嬉しそうに声を上げて笑う。
 ある日、彼女の目の手術が行われた。 目が見えるようになる手術だ。 彼女は手術を終えた後、興奮を無理矢理抑えるように 僕に尋ねかける。
一体世界は何色なの。
宇宙からみたら、地球は青色だよ。 でも、地上から見たら沢山の色だ。
七色ぐらい? 七色もあるの、世界は。
七色なんてとんでもないよ。 もっともっと、数え切れないぐらいの色に侵されてる。
素敵ね。そんな世界と出会えるのね。
 彼女はうっとりと、呟いた。 僕もつい彼女につられて、うっとりとした。 頭の中で美しい世界を思い浮かべる。 空の色を思い浮かべた。 草木の匂いと一緒に、草木の色を思い浮かべた。 しっとりと湿った空気が、僕の中に吸い込まれる。 僕が彼女と会ったのは手術が終わってから 既にそれなりの日数が経っていた。 だから明日はもう包帯を外す日だと、彼女に自慢げに言われた。 あまりにも幸せそうに言うから 僕はそんな世界と明日初めて会う彼女を、心底羨ましいと思う。
 次の日、僕が起きたときには既に彼女はベッドから消えていた。 きっと医者と話しているのだろう。 もう包帯を外したころだろうか、と僕はそわそわした。 看護師からも落ち着きがないわねと笑われるぐらいだ。
 僕は待ちきれなくて、車椅子を必死に動かし 彼女が出てくる部屋の前で待った。 まず彼女が一言目になんていうか、というつまらないことを予想しながら。 そわそわと十分ぐらい待っていると、彼女と医者が出てきた。 昨日あまりにわくわくして眠れなかったため、廊下だというのに うつらうつらとしていた僕を見て看護師がそう教えてくれたのだ。 僕の予想では、彼女は飛び跳ねそうなぐらい喜ぶと思っていた。 ああ、もっと早く世界が見れれば良かったのに! ……なんて。 けれどなんだか空気が違う。 彼女の雰囲気は暗く、医者も少し戸惑っているようだ。
どうしたの。
 僕は彼女に首をかしげながら、問う。 それに彼女は、今にも泣きそうな声で返す。
世界は、もっと綺麗だと思っていたのに。
 そう呟いて、彼女は大泣きした。 いつもは冷静に優しい医者と看護師が慌てるぐらい。 何より僕が慌てるぐらい、泣いた。 僕には彼女の絶望が計り知れなかった。 その次の日、彼女は退院した。 退院したけれど本当のところは、精神科へ行ったのだと 看護師がこっそり教えてくれた。 僕はがっかりした。 ある日、僕は医者に呼ばれた。彼女とは違う医者だ。 そして僕にそっと優しくとても幸せなことが起こるとでも 予言する天使みたいに言った。
貴方の目が、見えるようになりますよ。
 それは僕にとっては何の幸せでもない通達だ。 それどころか、まるで不幸せな出来事。 僕は微笑みながら返す。
いいえ、僕は目が見えないままでいいのです。 どうか他の目の見えない方を優先してください。
 寧ろ僕が天使のようなことを呟いた。 自己犠牲の呟き。 でも本当は違った。 僕は絶望を他の人に擦り付けただけだ。 医者の必死の説得は、僕の耳から耳へと風のように通り過ぎる。 今の僕の願いは一つだけ。
 どうか僕の頭の世界が、美しいままでありますように。

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