// 美しい手

 僕は、あれが欲しかった。 白く青白い線が通る、あれ。 やけに綺麗で、なめらかな質感の、あれ。 僕の欲しいものを何でも作ってくれる、あれ。
 僕は、母の手が欲しかった。
 小さい頃からだ。 他の子供が玩具が欲しいと駄々とこねるように 僕も母の魔法のようなあの手が欲しかった。 ちょうだい、と一度だけ言ったことがあった気がする。 あまり我侭を言うことのない僕の発言に母は笑う。 変な子ね、誰に似たのかしら。 そういって終わらせようとした母の服を掴み、止める僕。 本当に本当に欲しいの。駄目なの。 そういって泣きそうになると、母は困ったように 不自然なほど大きく首を傾げる。 母が困った時の出るその癖は、何故か僕に受け継がれた。 母はしばらく考えてから、そうね、いつかねと呟く。 どうしていいのかわからなかったのだろう。 それは僕も同じだ。 どうすればあの手が僕のものになるのかわからなかった。
 それから母の反応に僕は"まだ手に入らない"と分かり、言わなくなった。 大丈夫、まだチャンスは有る。 チャンスはあるはずだ。 ただ、どれがチャンスかを見分けるか。 それだけが、問題だ。
 僕はいつも見ていた。 母の手が皿を洗うのを。 母の手が掃除するのを。 母の手が趣味のピアノを弾くのを。 とにかく母は母としてではなく、母の手として 僕の中で確立した存在だった。
 僕はいつも見ていた。 母の手が何かするのを見ていたと同時に、老いていくのを。 段々とその美しい手に、シワが入っていく。 それすら芸術と捉えていた。 そして母は、僕が高校生三年生で亡くなった。 原因はガンだと聞いたが、そんなのはどうでも良い。
 結局生きているうちにチャンスは恵まれなかった。 僕は残念だと思う。 けれど今こそがきっとチャンスだと思い 夜中に死んだ母の眠る部屋へ、包丁を持って移動した。 冷たい布団をめくり、右手をそっと切りやすい位置に持ってくる。
 けれど不思議なことに、そんな万全な事態だというのに まったく僕はその右手に魅力を感じなかったのだ。 僕は母から受け継がれた癖をする。大きく首を傾げた。 老いたせいだろうか、と考えた。 病気の癌のせいだろうか、と思った。 どれも違う。 僕は気付いてしまった。 僕は生きている母の手だからこそ、求めたのだ。
 あまりに気付くのが遅すぎた。 なんて馬鹿なんだ。 僕は泣く。 嗚咽も何もなく、ただただ泣き叫ぶ。 彼女が生きているうちに切り取れなかった手を惜しんで。 ――何よりも、母が死んだことを、惜しんで。

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