// ハッピートラップ

 確か、と僕は朦朧する意識の中考える。 彼女と出会ったのは、まだ数ヶ月のこと前だ。 それなのに、なんと長く感じられるのだろう。
 初めて会ったとき、彼女はナイフを持っていた。 そして、そのナイフで僕の腹を刺した。 冬で今年一番の寒い日だと言われていたから 充分厚着をしていたはずなのに。 なんとも軽く、鈍い感触で、僕の腹に突き刺さった。 彼女は僕を殺す気は、まるでなかった。 生命の危険も、殺気も、何も感じなかった。 まるでただただ。 僕が生きているかどうかの確認作業をするように。 僕の腹を刺す。 何度も何度も、同じところを。
「ねえ、痛い? 痛い?」
 荒い息を吐きながら、彼女が訊ねる。 痛みで僕は答えられなかった。 体がゆっくりと、力が抜けて倒れる。 溢れ出る血が、地面にぼたぼたと。 雪は降っていなかったから それは決して綺麗な光景ではない。 寧ろ汚い血に汚された汚い地面で。 そこでようやく彼女は はっと気がついたようにやめたのだ。 ナイフを抜いて、ぼとりと、地面に落す。 がくがくと震える体を、抱えるようにして。
「あ、貴方がいけないのよ。 痛いって、痛いって言ってくれれば」
 確認作業。 それは多分正解だった。 その後彼女が救急車を呼んでくれたため 一命は取り留めた。 起きるとベッドの隣にいた彼女が、そう教えてくれた。 ごめんなさい、と一言呟いて。 泣いてはいなかった。 けれどひたすら後悔したように、俯いていた。 真っ暗な表情。 世界の全ては絶望で、自分が死ぬことが希望のように。 だから僕は尋ねた。
「生きてる?」
 死にかけた僕がいう台詞ではないだろう。 けれど彼女はそこでようやく顔を上げる。 そして可愛らしい表情で、言うのだ。
「まだ」
 いつか死ぬ。 きっと自分で。 それか人に殺されて。 決して、神様には殺されないと。 そう言うように。
「そう。良かった」
 本当は何も良くない。 刺されたのに。 その刺した奴が隣にいるのに。 そんな異常な状況なのに、何故か幸せに感じられた。
 僕と彼女は、同棲することにした。 僕の両親は海外へ出張していないし 彼女の両親は元々わからなくて、いないそうだ。 気がつけば孤児院だったらしい。 なんて彼女らしいエピソード。 話を聞いた僕は、思わず彼女を抱きしめた。 すると彼女は当たり前のように 自分を抱きしめる、僕の首へと手をかけて。
 そうやって、さりげない生活の中僕は何度も殺されかけた。 野菜を切っていた包丁で。 マフラーを編むための毛糸で。 物置に置かれていた、僕の小学生の頃のバットで。 あるいは、爪で目をえぐられそうになったことすら。 けれどどれもこれもがまるで良い思い出のように 僕の頭の中に押し込められていた。 今まで生きていたのが不思議なくらいだというのに。 何故か僕は、生きてた人生の中で一番幸せに感じてた。
「不思議だね」
 口に出す。 もう声にならないぐらい、小さな小さな、吐息。 倒れている僕は、必死で、彼女に触れようと手を伸ばす。 初めて会ったときと、同じナイフ。 同じ、僕の血に濡れたナイフ。 それは僕の心臓の血を吸った。 嗚呼。僕の手は届かない。 ぎりぎりの距離で、彼女に届かない。 なんて哀れ。 ――なんて。
 必死で、僕は尽きようとする命で。 哀れにも、彼女の最後の表情を見ようとするのだ。 息が絶えそうになりながら、彼女の表情を見る。 僕は、見た途端ほっとする。 ひどく歪んだ表情で笑う彼女を見て。 数ヶ月の同棲生活で、僕は何度も彼女の笑顔を見た。 けれど、どれも彼女の本当の笑顔ではなかった。 だから初めて見た彼女の本当の笑顔に。 僕は、心底ほっとしたのだ。 僕も、彼女につられて微笑む。 良かったね、と。 とどめに最後の一突きをしようとする、彼女へ向かって。 小さく小さく。 呟いた。


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