// 純粋性少女

 知ってる? と彼女が言った。 言ったといってもかなり小さい声だったせいか 一瞬独り言なのか尋ねているのか分からなかった。
「ねえ、聞いてる」
 その言葉でようやく彼女が尋ねているのだと分かり、頷いた。 けれど、何に対して知っているのかと 聞いているのかわからなかった。 彼女はいつも主語述語をちゃんと使用してくれない。 以前は小五月蝿く教師のように注意していたが、最近は怠慢気味だ。
「何を知ってるかって?」
「人ってねぇ、生まれるシュンカン光るんだよ」
 ほんの少しバカな女子高生みたいな台詞が嫌になったが そこは我慢する。そのかわり、首をかしげて訊ねた。
「人間はそんなに凄いものだったかな」
「あ、生まれるっていっても違うの。ジュセイだかなんだかされるときだって」

 学校のビデオで見たの、と彼女は付け足す。 中学だったかなと曖昧なことも言いながら。 それなら僕も聞いたことがあった。 けれど僕の場合は学校ではなく、医者の父からだ。 父はその時ゆったりと安いワインを 飲みながら、僕は音楽雑誌を読みながら。 けれどそのちぐはぐなリズムが綺麗で、何故かよく覚えている。 もっと高いワイン飲めよ、安っぽいなと父に毒づいたのも。 反抗期の真っ最中だったのだ。
「知ってるよ」
「なんだ、つまんないの。自慢してやろうと思ったのに」
「自慢してどうするんだよ」
 彼女は八重歯を見せて、笑う。 瞬間その笑みに欲情しながらも、僕もなんとなく笑う。
「頭の良さをアピールするの」
「もうお前がバカだってのは羞恥の事実だよ」
 シュウチ? と彼女が首をかしげた。 その首をかしげる動作は、父によれば僕の仕草によく似ているらしい。 僕はみんなが知っているってことだと説明すると、ようやく怒る。
「何それー、ひどーい」
 笑いながら怒っているせいで、まったく怖くなかった。 僕は彼女の頭を撫ぜて抱きしめる。 さっきの欲情のカケラ。 僕の中で彼女は気持ち良さそうに抱き返す。
「どうしてこうも変わんないの」
「何が?」
 彼女が本当に不思議そうに呟くので 長い黒髪にキスを落しながら聞いた。 小さい頭だ。子供みたいに。
「初めて会ったときも、同じ匂いで同じあたたかさで、同じ全てだったよ」
 甘えたような声。 初めて会ったときのことは、僕も忘れていない。 けれど彼女が覚えていたことに驚いた。 僕も頷きながら言う。
「君も変わってない。成長したけど、全然」
「成長は変わるもんじゃないの」
「ちょっと違う」
 難しいねと言う。そうだよと言う。眠そうだった。
 たしか初めて会ったとき、彼女が18のときだった気がする。 大学病院の精神科に勤めていた父が初めて僕を仕事場に呼んだ。 暗いエネルギーが収縮されたようなその場所に畏怖に似た感情を抱く。 けれどたまにやけに笑う人もいた気がした。 話によると、父がたまたま持っていた僕の写真を 患者が見たら会いたいと言ったそうだ。 その患者が今まで自分から望んだことはなかったそうだから、是非と。
 患者の部屋は、病棟でも一番奥の個室だった。 中を開けると長い黒髪が、一気に視界を埋め尽くす。 虚ろな目をした女。同年代か、ちょっと下か。 その姿が捨てられた子犬のように憐れで けれどその瞳は子犬のように純粋ではなく。 父がおやおやと困ったように言う。
「窓を開け放したままだね、いけない看護婦さんだ」
 一段と風の強い日で髪が乱れてもどうでもいいように、他人事のように。 彼女にふらふら近寄って、抱きしめた。 父はてっきり窓を閉めてくれるとでも思ったのだろう。 すこし驚いた顔をしていた。実際後ろにいて 見えなかったが、なんとなく想像できた。 彼女の長い髪が、僕の全身を包み込む。 外からの気の匂いからも、父の視線からも、この世界からさえも。 すべてから、逃すように。 彼女が震える声で呟く。
「お父さん」
 後から知ったことだったが彼女は父に虐待されていたそうだ。 そのせいで精神が他人より成長が遅い上、記憶がおぼろげらしい。 けれど先程の言葉に彼女の父に対して どんな感情が混じっていたのかはわからなかった。 ただ、彼女を抱きしめるのに必死で。 彼女の全てを受け止めるのに必死で。
「ねえ」
 今ここにいる彼女が言う。 少しずつ記憶を取り戻し、成長する彼女が。 いつか彼女は父親に虐待されていたことも思い出すのだろうか。 僕が何を思って抱きしめていたのかということも理解するのだろうか。 僕はいっそう強く抱きしめながら、彼女の言葉を聞く。
「私もちゃんと、光れたのかな。しっかりきれいに、お母さんの中で」
 彼女の母は、彼女を産んだ時に死んでいる。 体が元々弱かったそうだ。 僕は言う。
「きっと光れたろうね。君は今ここに生まれてきてるんだから」

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