形状記憶少女

// ノンリストカッター

 夕方六時頃だろう。 時計は見ていないが、外の暗さから大方予想をつける。 窓を覗くとぼんやり日が沈む直前だった。 風がほんの少し吹いているようで 木々がざわめくだけで寒気がした。 寒いのは苦手だ、と僕は誰に言うわけでもなく呟く。 恐らくそれは周りから見れば至極怪しい様子だろうが 周囲に人は見当たらないので思う存分呟ける。 果たしてそれが僕にとって、得なのか損なのかは置いておくとして。 歩くたびに揺れる、少々短い制服が寒さを増させる。 学校内だというのにマフラーを装着してもまだ寒い。 これはちょっと制服をもう一度、祖母に仕立て直してもらい大きめにし 寒さを避けるべきだろうか。
 ここで一つ勝手な想像を避けるため 説明を付け足させてもらうと 幼い頃に両親を事故で亡くした僕は唯一の身内の祖母の家に 預けてもらうことになった、なんて ドラマティックなエピソードは生憎存在しない。 両親は元気に共働きしているし、祖父母も生きている。 ただ二人とも裁縫が苦手なため大抵こういう仕事は祖母に任せているのだ。 今ではたまにもう大きいんだから、自分でやったらなんて言われたりする。 正直僕も両親達の血をばっちり受け継いでしまって 細かい仕事は至極苦手なので、それは丁重に拒否した。
 寒さで感覚が麻痺しかけた手を何回もこすり 暖かな息を吹きかけていると、ようやく教室に到着した。 今日は予想以上に寒かったので、ジャージを羽織って帰ろうという魂胆だ。 靴箱で思いついたことだったので三階にある三年一組の教室まで行くのは それなりに寒かったし気だるかったが、帰るまでの約二キロの道のりも 我慢しがたいのでジャージを選択することにした。 そのうえ、ジャージは次の日の朝も登校中使える、という利点もある。 それを思えばこんなこと――とまでは行かないがそれなりに頑張れた。 教室の扉をそれとなく覗くと、誰かがいた。 薄暗い教室では性別も何も分からない。 放課後自分とクラスメイト以外誰もいない教室で 二人きりになるのは少々気まずいので外で出るのを待つことにした。 ただ怪しいのは、ぶつぶつと呪文のような 呪いの言葉のような呟きが聞えることだ。 それが僕の好奇心を変に刺激し、そっと扉から覗く。 よく目を凝らしていると目が慣れてきて、ようやく人物がわかる。 山野晴〔やまのはる〕、うちのクラスの学級委員だ。 山野さんは確かバスケ部の副部長で 同性からやけに支持を集める人。 一年生でも僕と同じクラスで、入学式に何故か話しかけられた覚えがあった。 僕が癖でさん付けすると、毎回笑って訂正を求めた。 そんな堅っ苦しくなくていいんだけどね。 そのたび僕は一応謝っておく。 それはしばらく続いたが、二学期に入ると新しい友人の 出来た山野さんはそちらへ行くようになった。 僕も昔からの友人たちがクラスにいたので、特に問題はなかった。 噂だと山野さんと僕が喧嘩したからだ、なんていう どうでもいいものが流れたらしいことも聞いた。 別に噂というものはいいのだけれど、自らの評価を下げるということでは 気に食わない。ということとで友人達に真実の噂を流してもらったりしたものだ。 所詮噂なのだから、そこまでしなくたってよかっただろうけれど。
 まあ、そんな話は置いておいて、だ。 その山野さんが何故ここにいるのだろうか。 教師に用事でも頼まれただろうか。 だがしかし、今の状況では有り得ないとまでは言わないが ゼロには限りなく近いだろう。手の甲にカッターの刃を当てている、なんて状況で。 手首ではなく、手の甲というところになんとも言えぬマニアックさを感じた。 (マニアックというよりも、リストとは手首のことなのだから 『リストカッター』という言葉は、成立するのだろうか?) そうか、山野さんはリストカッターだったのか。 なんとなく納得し、僕は閉ざされた扉の小さい隙間に耳を当てて、音を聞き取ろうとする。
「違う」
 ぼんやりとした声に、そんな言葉が聞えた。 授業でいつもハキハキと高らかな声で発表する山野さんらしくない、 ネガティブな言葉だと思った。 他にも薄っすらとだが、なんとなくちらほら聞える。 その言葉ではどうにも判断は出来ない。 仕方なく野次馬根性旺盛な僕はここで思い切り扉を開けた。 いや、開けようとした。だが、鍵がかかっていた。 僕はさらっと格好良く登場しておこうと思っていた分、少々拍子抜けしてしまった。 顔をしかめながらポケットに閉まってあったピンを出して鍵穴に差し込む。 なるべく音を立てないよう、鍵の開く感触がするまで息を殺してピンを動かした。 扉を開く瞬間ピンをポケットしまい、しかめた顔は無表情に戻して、高い耳にくる音を教室中に響かせた。 もっとちゃんと整備しておけ、と今度教師に言おうと思った。 だがその音で案の定、山野さんは勢いよく振り返る。
「っ……は、ま」
 唸るような声で僕の苗字(正しくは浜である)を呟いた山野さんは、こんな僕ですら同情にかられてしまうような、痛々しい表情を一瞬見せた。まるで自らの世界を壊れ、一人ぽっちになってしまった幼子のように。 たしかに今ここで世界は一つ壊れただろう。 山野さんの恐らく誰にも知られないよう、そっと育ててきた大切な一つの世界の鍵が壊され無理矢理こじ開けられたのだ。 僕の手によって。プラス、ピンも含めて。 例えピンで開かれてしまうような世界でも、重要度は別物だ。 山野さんはそんな表情をしておきながら、何事もなかったかのように装う。 それはあからさまに痛い演技だ。
「鍵、は、閉じてなかった、のかな。……どうしたの、忘れ物?」
「いいや、ああ、うん。そうだね。確かに忘れ物だ」
 一瞬本当の目的を忘れそうになった僕は、否定したのをすぐに否定した。 決して足を不自然に速めることなく、むしろ不自然に遅いぐらいゆっくりと自分のロッカーまで歩んだ。そして積まれた教科書を片手でどかしながら、奥にぐちゃぐちゃに放り込まれたジャージを取り出して見せた。 これである、と口には出さなかったが山野さんは納得したように頷いた。 未だ先程の表情から完璧に変化できていない山野さんは、やはり普通の中学生だった。リストカットなんてしないような、普通の。 山野さんは強張った口の端をつりあげて、ぎこちなく笑った。
「そうだね、寒いもんね……」
「ごめん」
「え?」
 その僕の謝罪は少し予想外だったらしく山野さんは驚いたような声を上げた。 多分、僕が見ていないフリをするつもりだと思ったのだろう。もちろん山野さんも慌てて身振り手振りで自分のしていたことを説明するつもりなんてさらさらなく。普段のクラスメイト同士のように、演じるつもりでいたのだろう。だが残念ながら僕は普段から普通のクラスメイトではない。 謝罪だけでは理解できないだろうと思い、いや、と説明を付け加えた。
「見ちゃった」
 好奇心が見えぬよう、申し訳なさで塗り隠した。 あえて軽い口調にしたことで、少し親身さも滲み出しながら。 僕、サディストかも、などと思っていると山野さんはその言葉に諦めたように笑った。諦めの微笑みは柔らかく、優しい笑みだった。母性愛か何かに満ち溢れた聖女様の笑顔。それは僕の母の笑顔によく似ていた。
「いや、これは、君が想像しているのと少し違うんだ」
 多分、と少し弱気に言葉を重ねた。僕が誰かに言うつもりはないようであることを感じて何処からか隠していたカッターを出し、ゆらゆらと振った。 銀色の刃で黄色い細身の綺麗なカッターだった。よくあるタイプのものだ。文房具店からでも買ったのだろう。 僕は首を傾げ、ちょっと困ったようなふりをして聞く。
「違うって、何が?」
「リストカットとかじゃないんだ。その、なんて言うんだろう、確認作業とでも言うのかな?」
「確認作業?」
 僕は思わず言葉を鸚鵡返しする。訝しげな表情までしてしまった。 不味い、と思ったが顔を俯けていた山野さんには見えなかったらしい。 不幸中の幸いとでも言っておこう。
「あのね、ストレスが溜まると傷がふくらむんだ」
「……へえ、山野さんが」
「――それだけで? って思うかもしれないんだけど、結構重要なんだ」
 僕の冷めたリアクションに笑いながら説明を加える。 そんな山野さんの表情を見るとリストカッターとは思えなかった。 いや、山野さんの言う限りリストカッターじゃないらしいが。
「たまに、自分でも分からなくなるんだ。 自分がストレス溜まってるのか溜まってないのか。 日常的にストレスが溜まりすぎてるせいかな。 よくわからないんだけど、混乱しちゃんだ、考えると。
いつか爆発しそうで怖いから、その直前にストレス発散する。 ……直前ってのに意味はないんだけどね。 ストレスが溜まっていると長く腫れているから 自分なりに何分が大丈夫。何分でもう危ない、とか なんとなくわかるようになったんだ。 でも家は母さんがいつもいて出来ないから 学校の放課後、たまにこうやってるんだけど――」
 見られちゃったねと笑った。やはり母によく似た笑みだ。僕も思わず微笑んだ。山野さんにはつまらなそうな笑みではなく、困ったような笑みに見せるように、丁寧に微笑んだ。意外と理由が平凡だったな、と思う自分に山野さんが気付いたら、どうなるだろうと思った。多分山野さんは一生気付くことは出来ないだろうけれど。
「そっか、理由を話してくれて有難う。大丈夫だよ、僕は誰にも言わないから、ね」
「有難う。……ところでさ」
「ん?」
 カッターを刃を仕舞いながら、山野さんは言った。最初声が出ないみたいに、口をぱっと開いて何も言わなくて、仕方なく、と言う表情で喋り始めた。けれどその表情はすぐに十年来の旧友にでも会った機嫌の良い人間みたいに軽快に笑みをこぼす。
「二人で話すのって、その、久々だよね」
「そうだね。もういくらも話していなかったし」
「うん――それで、あの」
「山野さん、山野さん」
 山野さんの台詞を遮って、二度呼びかけた。今の僕はちゃんと笑顔を作れているかちょっと心配になりながら、呼びかけた。所詮言葉は台詞。ほら、僕の頭の中の台本に書いてある。山野さんの名前の後ろに、相槌を打ちながらも決心したようにってカッコで書かれてる。そして次は僕の番。その台詞を言い終わらせる前に、呼びかける。一度目は優しく、二度目は強く。そして僕はここで物語を終わらせる台詞を吐く。そうしなきゃ、物語は終わらない。
「大丈夫。不安になるのは分かるけど誰にもこのことは言わないから」 「……うん、有難う」
 山野さんは少し、悲しそうだった。僕らはその後すぐに別れることにした。 ジャージを羽織ながら、ほんのすこしほっとする自分に気付いた。恐らくあの話を思い出さなければ、僕は山野さんの話を信じていただろうからだ。その話とは、いわゆる噂だ。奥様方の好みそうな愛憎悲劇。噂好きの友人によると山野さんは幼い頃、虐待されていたという。父親からまだ小学生になったばかりのころに性行為を――というなんともドラマティックなオハナシ。多分下手糞な小説家でも誰でも話を書けば金になるんじゃないだろうか。だが今の時代となっては、それなりにありがちとまでは言わないが、意外と有り得る話なのかもしれない。それはもう、酷い話だけれど。
 すこし駆け足で校門に行くと、その噂好きの友人ともう一人の友人が待っていた。 先ほど玄関でジャージを思い出し、一緒に帰っていたところ待っててもらうことにしたのを忘れていた。門に寄りかさった二人の細身の体が二倍ほど大きく見えるのは、僕以上の寒がりのためだ。今日は私七枚重ねよ、とかナントカ朝行ってた気がした。ならばその中のセーター一枚でもくれたら良かったのに、とぼやけば、寒がりに一枚が生死をかける大問題であることを語られそうだ。そんな彼女たちは端正な顔をぶつくせて、不満そうに言う。
「弥生のばーか。いくら待たせてんのよ」
「本当だよー、すごい待ったんだからねー」
「悪いね、二人とも」
 僕は軽く謝罪しつつ、すこし微笑んだ。浜 弥生〔はま やよい〕。それが僕のフルネームだった。つまり名前から安易に予想できるであろう、僕の性別。もちろん、女の名前をした男なわけではなく、どう寝転んでも女なわけだ。噂が主食と言ってもいい飛鳥が、まだ怒ったようにぷりぷりと言った。
「明日から弥生のこと、ワガママぼっちゃまって呼ぶよ」
「じゃあ僕は飛鳥の事を、セバスチャンと呼ぶよ」
 んな! と飛鳥が叫び声を上げた。冗談であることを告げる。もう一人の友人、文音がそのやり取りにゆるやかに笑った。彼女の方は文句を言って、気が済んだようだ。二人は正反対とまでは言わずとも、それなりに逆方向に向いた二人の激しく緩やかな気性を、僕は愛していた。文音はふっくらとした頬を赤くさせ、にこにこと訊ねてくる。
「それにしても、何でこんなに遅くなったの? 心配したんだよ、一応」
「一応なんだね、いや、それが山野さんと教室で会っちゃって話が盛り上がったんだ」
 話が盛り上がったかどうか判断は未だつかないが、雰囲気が盛り下がっていたことは確かだろう。けれどあえてそれは言わずにしておく。純粋な文音は驚きを隠さず、意外そうに言った。
「へえ、山野君と! 山野君って、男バスの副部長だっけ? 確か女子から結構人気あったよねえ。いいな、浜ったら。そんな彼氏いつのまにか出来て」
「彼氏じゃないよ。山野さんは」
「文音馬鹿ねー。そんなわけないでしょ? 弥生がそんな色恋沙汰に巻き込まれることはないし、山野君と一年の頃ちょっと仲が良かっただけ。それに山野、昔父親から――」
 ひそひそと耳打ちするような仕草をした飛鳥だったが元々地声の大きい彼女にはあまり意味がなかった。離れて聞いていた僕でも、全て余裕で聞き取れた。そして言っていたことはやっぱり、虐待についてだった。それでも文音は驚いたように(実際驚いたのだろうが)口を押さえた。
「ええー、本当? 山野君かわいそー」
「今でも関係が続いてるとも言われてるらしいよ? やばいねえ」
 へえ、と文音はしばらく考えた様子でわざとらしく顎に手を当てて考えていた。 そして僕に向かって優しいにっこり笑いかけて言う。多分、この見返りをまったく求めない笑顔は彼女にしか出来ないんだろうな、と思う。
「浜はどう思う?」
「そうだね。……山野さんは、腰抜けチキンなホモリストカッター野郎ってところかな」
「ひっでえ」
 二人は慣れた様子で笑いあった。 リストカッターの部分については、二人は冗談か何かと思ったのだろう。 山野さんとの約束は破ったが、二人なら大丈夫だ。 ところで先ほど飛鳥の言った「今でも関係が続いている」と言う噂。 だが、それは残念だが間違いだ。 間違いだが、少々当たりも入っている。 彼、山野さんは放課後の教室で何か呟いていた。 それに「違う」以外にも実は聞えていたのだった。 その言葉たちを組み合わせてできる言葉は、こんなものだ。 『父さんは僕をまだ愛してくれている。愛していないなんて違う』 おそらく、幼少時代の虐待が彼にとっては愛であると記憶してしまったのだろう。 そのため、大きくなって愛してくれなくなった父親のかわりに、自ら傷付けて自家発電。つまりリストカッターになったわけだ。ああ、救えない馬鹿だ。 そのせいで、僕はとばっちりを受けることになった。彼に愛されてしまったのだ。 昔仲が良かったと言っていたが、ちらっとその頃聞いた話で「僕が父親に似ていた」そうだ。 そのおかげで変な愛情を持たれてしまったことを感じた僕は なるべく距離を置くことにした。 それが何も知らない周囲から見て「喧嘩した為離れた」ということになったのだろう。 飛鳥や雛乃に手伝ってもらい、そんな噂を即削除させてもらったけれど。 そして今日、久々に二人きりになれたチャンスを彼は見逃さず、告白しようとしていた。 だがそれを遮り僕はごまかした。 あれで迫られていたら、正当防衛と言って暴力に走るしかなかったかもしれない。 そういえば僕は確か「父親と何処が似ているのだ」と訊ねた覚えもあった。 ホモでショタコンなそんな奴と似ているなんて それなりに憤慨だったからだ。 だが、理由を聞いて少々納得してしまった。 理由は「世界の全てをまるで自分の玩具だと思っているような節がある」からだそうだ。 確かにその通りかもしれない。
 僕は冬の冷めた息を吸う。 彼は手の甲にいくつも傷跡をつけていたが、こんな寒い冬だから 出血は少なくて済むだろう。 そして一生父親のあとを追いかけていればいい。 壊れた玩具を相手にしない子供に、一生懸命壊れた玩具なりに刃向かえばいいさ。 僕は脈絡なく飛鳥の言ったくだらない冗談に、死ぬほど笑った。 もし僕は、今日の物語に一つ説明を加えるとしたら、こうしただろう。
"僕の母親は、腰抜けチキンなホモリストカッター野郎ではない"と。
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