// ショッキング

 電気も灯されない小さな部屋に置かれた小型テレビが、色鮮やかに賑やかにざわめいていた。そのチャンネルではゴールデンタイムらしい、当たり障りのないバラエティー番組をやっている。 それを疲れた表情の青年がぼんやりとコーヒーを飲みながら見ていた。 まだ二十代で若々しいはずの彼の表情は、疲れた表情のせいで五つばかり老けて見える。たまに目頭を押さえて、つらそうに顔をしかめてはまたバラエティー番組を見続けた。決して好きなタレントが出ているとかそういうわけではないらしく、単に頭を休ませるためになんとなく見ているだけのようだ。テレビを消しても頭は休ませることができるが、そうするとついついあのことを頭にめぐらせてしまうのだ。思わず溜息が漏れる。
 テレビの中のタレントが、ちょうど笑っているところをアップで映されたところだ。画面の上の方に、白いゴシック体の字で速報と浮かんだ。げらげらと客席の笑い声をBGMに、じいっとその字を見つめる。ぱっと消えて表示された字には、もういいと文句を言いたくなる文が連なっていた。 「先程***県で十四歳の女子児童が母親を鈍器で殺害するというショッキングな事件が」 そこでテレビがブツンと音を立てて切れた。彼は溜息をわざとらしくついて振り返った。ちょうど電気もパチンとつけられる。突然の眩しい光を手で遮りながら幽霊でもなんでもない、テレビのリモコンを持って煙草をふかした男性を見やった。 彼は別段驚きもせず、自分と似たようなしわがれた染みのついたシャツの男性を見てもう一度溜息をついた。
「何をするんですか」
「くだらねえ番組なんていいだろ?」
「頭を休ませてるんですよ」
 彼は自分より幾歳も年上だろう男性に対し、反抗期の子供のようにつんと言い返した。男性はそれに軽く笑い、彼の座る向側の席に腰を下ろす。 その際テーブルの上にリモコンも置かれたが、彼はまたテレビをつけなおす気はないらしく、ただじろりと男性を睨んだだけだった。 その視線にうっとおしがる様子も見せず、ただ男性はにやにやと笑っているだけだった。それがまた彼をいらつかせる要因にもなっているのだろうけれど。
「休む気でいた番組で、あんな速報流れちゃ休みにならないだろう。仕事を再確認しているようなもんさ」
 男性はもう短くなった煙草をぎゅっと灰皿に押しつぶした。煙が少しだけ上がって、青年の顔をくすぐる。彼は少しだけその言葉に弱々しい笑顔を見せて、そうですねと肯定するだけだった。疲れ切った彼の様子に男性はまた声を上げず笑うのだ。今二人がいるのは、先程速報でも表示された***警察署の休憩所だった。そして彼らを疲れさせたその事件は、同じく先程速報で流れた十四歳の女子児童の事件である。青年は今日で何度目かの溜息を大きくついた。力を抜いて、椅子に全身を預ける。
「まったく、困ったものですね。こっちは『ショッキングな事件』で片付けられないのに」
 男性は否定しなかった。ただし、肯定もしなかった。やはりにやにやとしているだけである。青年はこの男性のにやけぐせがいつまで経っても慣れなかった。いや、慣れそうになったときもあった。だが男性が自分にではなく、自分の後ろの、何処か遠いところを見てにやにやしている、と気付いたときから駄目になったのだ。駄目になったと言っては聞こえは悪いかもしれないけれど、そうとしか言いようがない。しょうがなく、無難に仕事の話を切り出した。
「ところで、彼女口開きました?」
「……ああー、うん、まあな」
 男性がいつものように、にやにやと笑うことなく頭をかきながら困ったように小さく笑った。さてどうしたものか、と呟きそうな感じだ。青年が眉間に皺をよらせて「もしかして虐待されてた、とか?」などと尋ね返すとさらに苦笑を大きくさせた。
「どうしたんですか」
「いやな、ちょっと今時らしい殺人を起こした理由だったから、つい――年寄りの偏見かもしれないけどな」
「今時らしいって……どんなのですか」
 青年に自らの母親を殺す、今時の理由など思い浮かべることは出来なかったらしい。まったくわからないという顔つきで男性に軽く詰め寄った。男性はそれを見て、お前は純朴だからなあ、とぼやいた。なんですって、と青年が目を吊り上げたが男性は慌てる様子もなくさらりと返した。
「パソコンを禁じられたからだそうだ」
「……パソコン?」
 思わず気と間が抜けた声が漏れた。パソコン、というとやはりあの、仕事や趣味で使うパソコンだろうか、インターネットとかメールを楽しむ、あれだろうか、と青年は頭の中で考えた。幸か不幸か、彼の頭の中にパソコンという単語で思い当たるのはそれだけだったらしい。理由を聞く前よりも更にわけがわからない、という表情をした。
「ああ、彼女はいわゆるなんだ。引きこもりなんだと。学校で苛められたのが原因で、な。よくあることだ。それで暇つぶしにパソコンを毎日やってるうちに、お気に入りのサイトとかいくつか出来たりして、毎日通わなきゃ気がすまなくなったらしくってな。中毒ってやつだな。ついでに自分でサイトなんかも作ったりして――ってところで母親が止めたそうだ。それで彼女キレたらしく、思わず……」
 ゴッ。男性はそんな幼い、けれど生々しい効果音を口にした。青年の脳裏に思わず殺害するシーンが浮かぶ。 少女と母親がパソコンについて一通り言い争った後、母親はいらつきを抑えながら夕飯を作り始める。台所から少女の耳に届く、刃物とまな板がぶつかる規則的な音。そんな彼女の横では、テレビが騒がしく鳴っている。ちょうど自分が今さっき見ていたようなくだらないバラエティー番組かなんかだ。そんなものに興味を持たない少女はふと、テーブルに上に置いてあった灰皿に気付いて、手に取った。つるりとした銀色で、父親が昨日吸った煙草のかすが手に汚す。手につかなかったかすは、染みのついた古いカーペットにぽとり落ちる。けれど、少女は気にしない。その灰皿の形状に魅入られたようにじいっと見続けるのだ。そこで母親が叫んだ。夕食の準備をしながらも余裕ができたらしい。先程の議論の続きを延々と叫び続けた。ちょっと、聞いているの? あなた、明日学校行きなさいよ! 夕食の準備、ちょっとぐらい手伝いなさいよ! 少女はその言葉など耳に入らなかった。灰皿の形状と、台所の母親の後姿を見やった。少女が上から灰皿をゆっくりと下ろす。母親の頭と、灰皿が重なった。なるほど、と少女は思う。こうすればよかったのだ、と思う。少女は思う。ゆっくりと母親に近づいた。母親は自分の後ろの床がきしむ音に気がついて、ようやく手伝う気になった? とでも皮肉ろうと振り返った。 バラエティー番組の客が沸いたと同時に少女は灰皿を振りかぶり――。
「おい、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
 男性が青年の肩を揺らした。それにようやくはっとする。馬鹿な。考えすぎだ、と自分に言い聞かせて自らの想像に怯えていたのを隠すように、呟いた。
「信じられませんね。母親を……パソコン、ぐらいで」
「彼女にとっては《ぐらい》じゃなかったんだろうよ」
 気付くと男性は新しい煙草に火をつけていた。そしてやはり男性は、青年の知らない何処か遠くを見ている。にやついては、いなかった。青年は自分がその《遠く》が何処であるのか、一生分からないような気がした。男性は煙草を加えて、煙を口からそっと吐き出す。ぷっかり、一つの輪ができた。
「彼女にとってはパソコンがもう一つの世界だ。あるいは、たった一つの世界だ。いじめられっ子の自分をゴミ箱にポイして、パソコンを新しい世界として、受け入れた。そしてその世界の価値は、大きかった。母親の命とすら、等しくて」
 いや、それどころか、と男性は付け足した。
「母親の命よりも、かもしれない――まあ、年寄りのたわ言だ。気にするな」
 男性は何も言わない青年に向かって、珍しく優しく微笑んだ。そしてさて、仕事するかねと椅子を立ち上がる。青年は足がしびれたみたいに、立ち上がれなかった。世界がリアルに、迫ってきたのだ。今まで±0でみていた世界を突然、顕微鏡で見たような気分だった。唇を噛締めて、何故かもれてくる嗚咽を堪えようとする。顕微鏡を覗き終えた後の男性の優しい微笑みがまた、酷く対照的だった。青年は、とても泣きなくなった。少女とその崩壊した世界と、母親のために。そして自分と彼のために、まるで、絶望して嘆くように。
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