形状記憶少女

// 君の背中に爪跡を

 ああ、空が眩しい。 私の視線の先には窓硝子越しの月があった。 暗い闇に包まれた空に一点の私の瞳を突き刺す光が私と彼を侵食する。 涙が溢れてきそうだけれど、それは決して感動とかそういう感情的なものではなくて 単に光によって乾く瞳を潤わせるものでしかないわけだ。 所詮人間はそういう風に出来ている。 感情とか何よりも本能が最優先。 別に何がいけないというわけじゃないけれど。 それでも私の感情を高ぶらせるには充分な要素だった。 いや結局のところなんでもいいんだ。 状況とか雰囲気があくまでそうさせたにすぎない。 簡単に言えば、勢いだ。
「……たッ!」
 彼が小さく悲鳴を上げた。 そこでようやくぼんやりと違うところへ言っていた頭が戻ってきた。 彼の動いた背中で月が隠れる。 ああ、勿体ない。 けれどそれでようやく彼のやけに白い肌が見えた。 それでもひ弱な印象はない彼は何処か不思議だ。 その背中には私が付けたらしい、小さな爪跡が見えた。 それを撫でながら、ちらりとこちらを見て彼は呟いた。 痛いんだけど。 本当は呟いてすらいないだろう。 ただ目がそう語っていただけだ。 私は困った表情を作ってみせた。 ごめんね、ごめんね。 漫画みたいな魔法の力を持ってるわけでもないし、 彼がそれを期待しているわけでもない。 だからどうなるわけでもないのだ。 彼は私に覆いかぶさったような姿勢から、上半身を起こして爪跡をなぞっていた。 小さく痺れるような痛みが、彼をくすぐっているのだろうか。 それは私が残した産物であり、私と彼が同一化したと考えていいのだろうか。 考えることも信じることも自由だ。 それでも私はまだ満足しない。 もっともっと私は彼に愛されられる。愛せられる。傷つけられる。傷つける。 そこでふとした罪悪感がぽたりと私に垂らされた。 それは考えれば考えるほど染みが大きくなる厄介なもの。 でも私には関係ない。 それをはじいて私は微笑む。
「ごめんね、爪、切っておくから」
「ああ、そうしてくれ」
 私はお芝居みたいなセリフを読み上げた。 彼も溜息をつきながらそれに返す。 ああ、此処が舞台ならば。 次はどんな仕草をすればいいかしら。 観客はゼロ、ライトは月明かり。 そして、手には凶器。 これで自害するか彼を殺すか。 どちらかしかないだろう? そんなことを考えているうちにぷつ、と軽い音がする。 凶器である爪に赤い血がつく。その前に自分の首元に痛みが走った。 凶器――あるいは狂気とでも言うか――の汚れを私は拭わない。
「何やってんだよ」
 気が付けば、彼の手は私の腕を掴んでいる。 私の肌に赤い絵の具を描くように落ちる血の雫。 ああ、そうか。 私は前者は選んだのか。 無意識だったがその選択肢は意外なことこの上なかった。 私が人魚姫ならば、間違いなく王子様を一瞬もためらうことなく殺すだろうからだ。 そして私は生き残って、叫べないことを知りながら叫ぶのだ。
「私は貴方の分まで生きましょう」
 酷い図々しさに溢れかえった台詞だ。 ああだけどそれこそが私。 その図々しさが私。 卑怯者であれ悪役であれ。 私が愛するのは何時だって憎悪に満ちてる。 だったら私は人魚姫にすらなれやしない。 そうだそれこそが正解だ。 だからと言って魔女にすらもなれない。 私は村の平凡な少女で生まれ持った狂気をひた隠して生きていく。 あの姫を殺したら国中がどんなに嘆くだろうか! あの王子を殺したら姫は幾度涙を零すだろうか! そんなこと考えながら非日常から懸命に逃亡して、逃亡して、逃亡して。
「おい?」
「ごめんなさい」
 また思考が飛んでいく。 満月になると交通事故が増えやすくなるとか、そういうものの延長上? はたまた経過上? いずれにしろどちらにしろ気のせい? 私は少し頬を引きつらせながら、唾液をたっぷり含んだ赤い舌で彼の背中の爪跡をなめた。 彼が小さな悲鳴をあげる。 それに私はまた欲情する。 泣きたくなるような死にたくなるような衝動に溢れかえる。 一つ溜息がした。
「……何してんだよ」
「消毒だよ」
 爪跡と言っても血が出てるわけでもあるまいし、意味は無いだろう。 けれどだからこそ私はなめ続けなぞり続ける。 彼が私のものである証を愛でるということで、私が彼を愛していると言う証だ。 酷い自己中心的な証。 世界は私中心に廻る。 巡る。 何が手に入れられるってわけでもないけれど 何がどうなるってわけじゃないけれど その爪跡が彼より何より世界より一番美しいものに見えたんだ。 表面上の輝きではなくて、内面の鈍く光る私のもの。

「――死ぬなよ」
「死ねないよ」
 彼は私が自殺するようにでも見えたのだろうか。 それは間違いだ。 こんな美しいものを残して、私が死んでいけるはずがないと言うのに!
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