// (五・冬)

 起きがけの溜息が白かったから、また冬が来てしまったのか、ともう一つ溜息をついた。それでも学生たちよりずっと遅くに起きれているんだから、まだ暖かいはずだ。よろよろと寝巻にカーディガンを羽織ってロビーに出ると、扉の正面に置かれたソファに座る女の子が目に入る。優雅に紅茶を飲みながら新聞を読んでいた。朝の九時にそんなことをしていて、他の寮生とは一線を画す上品さは、間違いない。
「カナさん、おはよう」
 ちらり、と私を見て、一つ唸った。
「あーあ、またヨリコさんにばれた。今日はわざわざハナの服まで借りたってのに」
「そりゃ、見ればすぐにわかります。寮母だもの」
「働いてるんだか働いてないんだか、よくわかんないくせに」
 向かいのソファに腰を下ろすと、カナさんは元より温めてあったカップに紅茶を注ぐ。カップは私のお気に入りのものだし、紅茶も私の好みの匂いが柔らかいタイプだ。インスタントなんてとんでもない、ちゃんと茶葉であるのも偉い。
「紅茶はありがとう、でも働いてないは余計。いつ追い出しても良いのよ、部外者、って」
「お気を悪くさせてごめんなさい、ヨリコさん。ヨリコさんは立派な寮母さまさまです。ってわけで、はい、本日の紅茶どうぞ」
「よろしい。……うん、紅茶も良い感じ。なんだか、夏の頃より上手になったわね」
「そりゃ、毎日のようにヨリコさんに淹れてますから」
 笑う。
 カナさんが学校を辞めてから、もうふた月になる。夜遊びだの、煙草だの、ずいぶん遊んでいたことがばれてしまって、即退学だ。ハナさんには実家に戻る、と嘘をついたけれど、実際父親に勘当されたので、もう戻る家がないのだという。今は年上の恋人の家に住まわせてもらっていて、それが坂道の入口にあるスーパーの横のアパートと言うから、灯台もと暗しというか。しかし、カナさんは嘘をいくらでもつく人だから、母親あたりには戻ってきなさいと懇願されていそうなものだ。結局、ハナさんのことが見捨てきれないで、心配なのだ。そういう事情もあるし、カナさんち双子は長期休みの間もずっと寮にいる人たちだったから、監督生以外で唯一仲の良い寮生だから、学校を辞めた今でもつい侵入を許していた。まあ、以前はもうちょっと、カナさんも私に対して尊敬の念みたいなものがあったはずなのだけれど。
 寮にいた頃よりずっと伸び伸びと気持ちよさそうなカナさんは、紅茶の一杯目を飲み干すと、さて、とばかりに身を乗り出した。
「近頃はどうです、ヨリコさん」
「ん、何が」
「そりゃ、寮の様子とか」
 素知らぬふりをしてみたけれど、週に一、二度訪れるカナさんの決まり文句だ。話し相手になってくれるのはありがたいのだけれど、ときおり、試されているような気もする。
「えーっと、ハナさんは、最近ようやくまた学校に行き始めたよ。カナさんの別れ際の厳しすぎる発言から、ようやく立ち直ってきたみたい」
「厳しくないです。兄へのブラコンや私へのシスコンを恋だと勘違いしてしまうような世間知らずから突き放すには、あれぐらいしなきゃ意味がないんです。……ああいえ、そうじゃなくって、他の人たちの話です」
「んん、ええと、監督生がもう引き継ぎに入ってるかしら。次の子はね、トキワさん」
「へえー。まあイノリさんは一番上って感じしないしな。他には」
「え」
「他には」
 ……答えは沈黙、である。カナさんは胡散臭い顔で私を見る。
「ヨリコさん……?」
「りょ、寮母だからね、正真正銘の!」
「実は妄想で、ただの引きこもりなんじゃないんですかあ? まったく、ヨリコさんもう今月で三十じゃないでしたっけ。あーあ、三十路で引きこもりなんて、まったく終わってるなあー」
「きゃー! やめてやめてカナさん! わ、私だって好きで引きこもってないんだから」
「ふうん、と言うと?」
「だって前の寮母さんもあんまり姿見せなくってえ、それは寮生にプライベートな空間で大人の姿とか見せるのはかわいそうっていう……」
「入れ知恵くさいなあ。ほんと、ツテでこの仕事してなきゃ、のたれ死んでたんじゃないの、ヨリコさん」
「うう……私も、ちょっと思う」
 正論にうなだれる。
 本当にこの仕事につけたのも運で、私がこの寮にいたころの寮母さんが私の卒業と同時に腰を痛めてやめることになったのだけれど、突然だったから引き継ぐ人間がいなかった。生きれる、と言った程度にしか給料はもらえないし、休みがほとんどないようなもの、というのが大きかったらしい。そこで進路が決まっておらず、もう実家に帰るしか予定のない私がやりましょうか、と冗談めいた風に声をかけると、寮母さんは真剣な顔で頼んできた。今思えば真剣な返事をしていなかったのだけれど、まあ、結果オーライだった。
「カナ、ヨリコをいじめるな」
 怒りのこもった声は、玄関からだ。長身細身の女の子が、ジャージ姿で息を切らしている。靴を脱ぐなり近付いて、むん、とカナさんを威嚇するように眉を吊り上げている。目つきが良くないのと、その長身のせいか妙に不良っぽい。まあ。
「はい、ワンコちゃんおはよう。ズボンチェック」
「あっ」
 真剣に抱擁を求めて広げられた両腕をすり抜けて、ズボンから煙草を抜く。事実、こうして不良らしいところもあって、煙草が好きなのだった。いくら没収しても、隙あらば買ってくるからキリがない。どこから金が出てくるのか、もしかして万引きじゃないだろうか、と怪しんだけれど、どうも走る以外の趣味が煙草ぐらいしかないおかげらしかった。しかし、走るのが好きなわりに煙草が好きとは、十代ならではの矛盾なんだろうか。
 私がポケットに煙草を仕舞い込んでいる間、カナさんはわざとらしくワンコちゃんを見て首を振る。二人は案外仲が良いのだけれど、それもまた煙草という共通の趣味からだった。十代、なのになあ。
「ワンコ、また学校さぼったの。行かないとだめよ」
「でも、わりとジョギングした」
「だから何よ」
「カナも行ってないだろ」
「私は辞めたから、行けないの」
「そういえばそうだった」
 ぬるい会話だなあ、と思いながら、ワンコちゃんにシャワーを浴びてくるよう言う。冬の朝にどれだけ走れば、これほど目に見えて汗だくになるのか、私にはわからない。
「面倒だ」
「そうしたら朝食、ん、お昼か。まあ、ご飯作ってあげるから」
「んんー」
 子供みたいな唸り声を上げる。
「ちゅーは」
「なぜその付属をしなきゃいけないんですか。ご飯単体です」
「んんんー……」
 しかし食欲が勝ったか、大人しく浴場の方向へ歩き出した。後ろ姿をカナさんと眺めながら、ほう、と息をつく。
「ほんと、ずいぶん懐かれたんですね。私がいなくなってからのことでしたけど、にわかに信じ難かったですよ」
「うーん、そうね」
 しみじみされたので、私も考えてみると、たしかに最初にはこんなことになるとは思っていなかった。
 ワンコちゃんと言えば、学校側からもすこし問題児でして、という風に教えられた。事実学校には来ないし、煙草を吸うし、夜遊びもするし、たしかに不良らしい行動が多い子だった。これで人を傷つけたり物を壊したりすれば問題だろうけれど、そういうことをしなかったのが寮に入れた理由か。学校も進級できる程度、ぎりぎりには行っているらしかったし。
 そうして一年半以上経ったある夜、目をしょぼしょぼとさせて、ひもじそうな顔でワンコちゃんが帰ってきたところ、私がたまたま風呂上がりだったのだ。
「カナは」
「え、あれ、知らない? 先日辞めてしまったの、学校」
「えっ」
 愕然とした顔をしたワンコちゃんを、今でも覚えている。目を合わせることもあんまりしない子だったのに、ああ、友達に対して思うところはきちんとあるのだ、と思ったからだ。まあ、不良というものは身内に甘いみたいだしな、という偏見を作りつつ、寮母らしく尋ねた。
「何か用事でもあったの」
「……お腹が空いた」
「……えー、カップラーメンならあるけど」
 十代大好きフードだろう、と甘く見たが首を振られる。
「苦手」
「うーん、そっかあ」
 好き嫌いは良くないとは思うけど、カップラーメンのインスタントが嫌いというのは、なんだか批判しづらいものだった。たしかにそれは正しい、というような。
「じゃあ、ちょっと時間かかるけど、親子丼なんていかがでしょう」
「親子丼」
「ご飯は冷凍のだけど、卵鶏肉玉ねぎ調味料があったはずなので」
 考えるワンコちゃん、のち。
「……お願いします」
「うむ」
 深夜の食堂を寮母権限でもって使い、いつも自分が食べるのと同じように作った。味は普通のはずなのだけれど、それがどうもうんと、ワンコちゃんはお気に召したらしく懐かれるようになった。食べ終えての一言めは「なんで料理を寮生に作らない」という批判で、二十人分作る自信がないことを素直に告白すると、不満げだったけれど「まあ、私だけ食べれればいいや」で話がまとまった。料理を作る機械認定だ。いや本当は寮母ってそれぐらい働くべきなのだろうけれど。……普通の寮母って、掃除洗濯以外、何をしているんだろう?
「ヨリコさんには、不思議な魅力があるのかなあ」
「ま、まあ、これが私の、その、寮母力ってやつかなっ」
「違うと思います」
 手厳しかった。
「っと、そうだ、くだらない話ですっかり忘れてた。はいこれ、ポストにめずらしく手紙が入っていたので」
 横に置いてあった封筒を、そのまま私に差し出された。茶封筒で、達筆に私の名前が宛名にある。こんな手紙をもらうのなんて、何年振りになるだろう。
「手紙」
「ええ、女の人からでしたよ。いやもしこれで男だったら、手紙渡してなかったかもしれない」
「な、なんでよ! ……まあ、いいや、ええっと」
 封筒を裏返すと、脳味噌の奥が熱でじわり、とにじむような感覚があった。

 週末の夜、久しぶりに街に降りた。高校のある駅から二つ隣の、駅前飲み屋街。八時に東口駅前で、という約束だった。十分前にはもう到着していたけれど、街に降りるのも久しぶりなら、人と会うのも久しぶりで、正直胃が痛かった。二十歳の同窓会を思い出す。寮母してます、と言ったときのみんなのなんとも言えない表情。十年経ってもまさかやっているとは思わなかった。カナさんの言うとおり、せめてもっと頑張っておくべきだった、といまさら後悔している、うちに約束の時間。
 私が昔から妙に早く待ち合わせ場所にいるのと同じく、相手もまた、昔と変わらず時間ぴったりに到着した。が、久しぶりなのと暗がりなので、いまいち判断が付かない。高そうなスーツ、綺麗なヒール、パーマがかった髪、ひとつひとつ記憶を照らし合わせる作業を相手もしているらしくて、ほとんど同時にはっと確信した。
「ヨリコ、久しぶり、ヨリコ!」
「わ、わー! わー、ミズヨさん、すごい、本物!」
「当たり前でしょう! もう、もうー」
「うそっ、ミズヨさん結婚してるっ」
「したよーもうだいぶ前だよー」
 感慨深すぎて、二人で馬鹿みたいに手を取り合って、名前を繰り返し呼んだ。けれどやっぱり三十歳ですぐに疲れてしまったので、とっとと飲み屋に行くことにした。私は何にもわからないから、ミズヨさんに任せきりだ。
 ミズヨさんは、私が高校在学中のルームメイトだった。三年間ずっと同じ部屋で、ミズヨさんは監督生もやっていた。二人とも盆と新年ぐらいにしか家に帰らないから、本当にあの三年間は家族よりも家族らしかった。他の同期生たちも今度呼ぼう、と会って十分で決めた。
 まずは、安い居酒屋チェーン店に入った。ビールを頼んで、乾杯して、滝のように昔話をした。思いで話をするたび、すごいな、と思う。昔あったことを語り続けて、懐かしいね、懐かしいねと言ってるだけで話が盛り上がってしまうのだから。これが三十年生きた良さなのか、と、よくわからないことを考える。酒が進むのもあって、ただでさえ弱い頭が、どんどん弱くなっていく。
 明日も仕事らしいミズヨさんのために、二店めにバーを選んで、そこで切り上げることにした。私だっていつも仕事だ! と叫んで怒られたことを、明日まで覚えている自信がない。それほど酔っていても、移動のときに短い間でも冷たい風を浴びたせいで、頭が冷えていた。でもぼんやりしている、不思議な感覚だった。急に話すことがなくなったみたいに、ミズヨさんと黙ってウォッカを待っていた。水割りと、ロック。
 あのね、とウォッカを受け取りながら、ミズヨさんは口を開いた。
「夫がね、浮気してたの」
「えっ……何それ、別れるの」
「ウウン、別れない。なんか相手の子が死んじゃったみたいだから」
「えっ」
「仕事場の子のはずで、死んだのは事故だか自殺だか、よくわかんないけど」
「殺してないよね」
「馬鹿、当たり前でしょ! さすがにあの男のために犯罪できないわ……でもほんと、最近ずっとね、可哀相になるぐらい死にそうな顔してんの」
「フウン、まあ、そうだよね」
 からん、からん、と氷だけが入った
「うちは、寮が潰れるかもしれないの」
「えー嘘。そんなの昔からの噂じゃない」
「いや、今回ばかりはね、ちゃんと偉い人から覚悟してね、って言われてしまったの」
「ええー……ふーん……」
 ふーん、ともう一度、ミズヨさんは言って。
「援助してあげましょうか」
「えっ、まさか」
「まさかって何よー」
「だってお金とか」
「お金なんてね、腐るほどあるから。子持ちなし共働きですもん」
「わー頼もしい」
「ウン、任せなさい。でも、キスしてくれたらね」
 ぱっと、スイッチが切れたみたいに、頭から熱が抜けた。同時に、走馬灯みたいに思い出が脳裏に駆け巡った。三年生の夏、まだあの寮がもう少し新しくて、角部屋で、私たち以外誰もいないんだよ、と笑って、クーラーを構わずがんがんかけて、ベッドでふざけあって、そのうち、目が合って、顔が近付いて、生ぬるい息が首筋にかかって、かかって、それから。
「……嘘だよ、馬鹿ね」
 赤らんだ頬を引きつらせて、ミズヨさんは笑っている。左手の薬指が、ぎらぎら光っている。あともう少し時間があったら、私たちが若かったら、どうなっていたろう。

 ミズヨさんと別れて最寄りの駅を降りると、つまらなさそうな顔をしたワンコちゃんが、駅前ベンチに座っていた。
「ご、ごめん」
「……遅い」
「ごめん。……いやっ、迎え頼んでないけど」
 言いきる前に、もう頭を抱えられていた。たぶん彼女としては、私を抱きしめているのだろう、と思うが。百五十ぐらいの私と、百七十近いワンコちゃんだと、こうなるらしい。それでもなんだか、切実な抱きしめ方だったので、かわいそうで抵抗しなかった。
「わあ……ヨリコ、酒くっさ」
「お酒飲みましたから」
「なんか変なことされなかった」
「変なことってなあに」
「だって、だってヨリコ、初恋の人なんかに」
「いやいや、ちょっと待って。何よ初恋の人って」
「カナが言ってた」
「……ああ、なるほど、だからここで待つこともできたわけね。ひどい話の盛り方だけど」
「ただの、同級生、元ルームメイトです」
「本当に」
「本当」
 ようやく抱擁から解放されたかと思うと、顔を近付けられた。から、手で抑え込む。
「こら」
「なぜ」
「だめだからです」
「……今ならいけると思った」
「そんな犯罪者のコメントみたいに……だめです、許しません」
「どうしたら許されるの」
「えー……煙草をやめて、真面目に学校通って、卒業したら」
「遠い!」
「すぐに過ぎちゃうよ、本当に」
 本当に、と繰り返した。
「じゃあ、手をつなぐのは」
「うーん、まあ、寒いし迎えに来てくれたから、良いでしょう」
 指先が触れただけでずいぶん冷たいから、待っててくれたのが申し訳なくなってしまった。私はお酒を飲んで熱いから、ちょうど良い。
 本当は。誰にも言えないのだけれど。ミズヨさんから、キスする、と言われたときに、高校時代のことよりも何よりも、ワンコちゃんのことが強く強く思い出されたのは、本当に誰も言えないのだ。
 とぼとぼ歩いているうちに、後はもう坂道だけ、というところで、ワンコちゃんが口を開く。
「そう、そういえばみんな言ってるけど」
「なあに」
「本当に坂ノ上女子寮、潰れるの」
「……大丈夫だよ、きっと。きっと、ね」
 ほんの瞬間、ミズヨさんの唇を思い出してみる。でも、ワンコちゃんのさっき見た間近な唇と比べてしまったから、だめだなあ、と思う。
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