// (二・春)

「イノリさん、お姉さんが昨晩に亡くなったって夜遅くにお母さまから連絡が来たの。それで今日の朝早く、慌てて実家に帰ったわ」
 春休み、最初の日だった。先輩は監督生で、イノリと同じく監督生である私に知らせに、そっと部屋を訪れた。
「どうせ春休みなんだから、ゆっくりしてらっしゃいって言ったんだけどね、急きょですみませんって、帰る間際まで、私とトキワに申し訳なさそうだった」
 喋りながら、先輩は手を止めない。上手に片手で私のワイシャツの釦を外してゆく。部屋に入ってすぐベッドの一段目、イノリのベッドに押し倒されていた。私は抵抗しない。
 先輩はひっそりと笑った。
「まさか、こんなことしてるなんて夢にも思ってないでしょうね」
「ええ、きっと」
 声を潜めて笑いながら、先輩の指先は私の頬から、首筋、鎖骨、肋骨を撫でる。たまに唇を押しつける。ぬるかった。
 いつからこうなったのだろう、と声を抑えながら、いつも考えている。でもいつも思い出せない。記憶は混濁していて、目の前のじりじりと迫る快感が優先されて、悲しいことに、頭が働かない。気が付くと何もかも終わっているような毎日で、しかし、先輩の安らかな表情をみると許してしまうのだ。
「――イノリさんのお姉さんは、私に似ているんだったかしら」
 先輩の声も、なんだか遠い気がする。

 三日ずっと、暇さえあれば先輩は部屋を訪れて、イノリのベッドに私を押し倒した。四日目には約束通り、イノリは申し訳なさそうな顔をして帰ってきた。
「ごめんね、トキワさん。本当に、急で」
「そりゃあ、そうでしょう。若い人が死ぬなんて、いつだって突然だよ」
「ウン、でも」
 イノリの話を聞かないで、淹れておいた紅茶をカップに注いで、差し出した。いちいち一階の食堂で淹れるのも面倒だから、朝早くに水筒に入れておいたのだ。時間が経ってしまっているし、インスタントだけど、と前もって言っておく。別にイノリだって紅茶に詳しくないから構わなくて、曖昧な笑顔を見せて、礼を言う。
「本当は、イノリ、もう帰って来ないんじゃないかと思った」
「ええー、なんでよう」
「前に通える距離だけど、お姉さんが実家住まいで部屋がないから寮に来たって言ってたから。そのまま、ちょうど新年度だし、通いに変えちゃうんじゃないかなって」
 それはないよ、と笑って、紅茶を飲んだ。美味しい、と言っているけど、顔は強張ったままだから、頭を撫でた。
「なにい」
「なにか、怖い顔をしているから。席、外そうか。一人のほうが気楽じゃない」
 もうイノリは笑わない。目を伏せて、間を置いて、うんと大人びた表情で顔を上げた。
「ねえ、トキワさん」
「ウン」
「私、本当は、もう二度と帰りたくないの」
 カップを置く。
「お姉ちゃんは、とてもまじめな人だった。だから単純な仕事のミスなんかで自殺した。みんなそう言う。でも、本当は違うの」
 イノリが小学生のときだった。家に帰ると、高校生の頃の姉がいた。部屋で知らない男の人といやらしいことをしていた。よくわからないけど、見てはいけないものだ、とは思って公園で時間を潰した。姉はいなくて、しばらくすると母が帰ってきて、姉が帰ってきて、素知らぬ顔をしていた。
 すぐその後に、友達からエッチな少女漫画を借りた。ようやく姉がしていたことが分かって、ああ、なるほどね、と思った。姉に見つかった。母に告げ口をされた。父親がいない家庭だからか、妙に潔癖だった。糾弾された。姉も隣で、嫌悪した目つきでイノリを眺めていた。吐き気がした、と言う。
「お通夜にさあ、その相手が来たのよ。久しぶりに見た。お姉ちゃんの上司だった。結婚指輪してた。妻子持ちだって。ブタみたいに肥えた人でさ、もう、ソーセージみたいな指で。どうしてお姉ちゃんは、もうその指輪が抜けないこと、気付かなかったんだろうね、馬鹿だな」
「ねえ、もしかして前に監督生のこと、お姉ちゃんに似てます、って言ってたのって」
 笑う。イノリは処女だけど、もう少女じゃないみたいな笑い方をするようになっていた。
「悪い意味だよ。お姉ちゃんみたいな下衆なことしそうだなって、イメージ。でも大概の嫌悪ってイメージでしょ。それにイメージでも私は、お姉ちゃんから遠ざからなきゃいけないの。私はお姉ちゃんにならないために、絶対」
 絶対なの、と繰り返した後、心もとなさげに呟いた。
「ねえ、失望したかな」
「なんで」
「お姉ちゃんになりたくないって言って、こんなよく分かんないこと言ってる」
「いつもよく分からないよ」
「そっか」
 イノリは笑う。もう喋らないことを確認して、私はそっと部屋を出ようとして直前、振り返る。
「イノリがいない間に、シーツ、新しくしておいたから。古いシーツ、持っていくから。寝て気分転換も良いんじゃない、私は、しばらく戻らないから」
 返事はなかった。入口に畳んでおいたシーツを持って、廊下へ。私は迷わず三つ隣の部屋の扉をノックする。応えはない。もう一度ノックして、返事がないので、扉に耳を当てた。鳴き声が聞こえた。鍵はかかっていないようだったので、ドアノブを回す。
 先輩は、ベッドで膝を抱えて泣いていた。足元にはイヤフォンが転がっていた。
「聞こえましたか、先輩」
 顔を上げない。
「安心してください、先輩。あなたがイノリのことを好きなんて分かりきったことです。行為のたびにイノリのベッドに固執して、イノリの話ばかりするような先輩なんか。盗聴器まで仕掛けちゃう先輩なんか。イノリの言うとおり、下衆ですあなたは」
 はっと顔を上げて、おそれる顔をしていた。私はにっこり笑った。
「イノリは、何も気づいていませんよ。大丈夫です。でも、そういう先輩の何もかもを知って、私はあきらめられなかったんです。不毛ですね、先輩」
 手にしていたシーツを広げて、先輩を包んだ。
「もう私の身体に染みついたイノリの匂いなんかじゃありません、イノリのシーツ、そのものです。まあ、私とあなたの行為のあとがあるかもしれませんが、どうぞお楽しみください、先輩!」
 部屋を出た。引き止められない。行き先は思いつかない。ロビーに行こうか、それとも、あてどなく散歩へ行くのも良い。じわじわと涙がこみ上げてくるけれど、私ばかりはもう泣かないべきであるような気がして、鼻を二度すんすん鳴らして、我慢した。外の桜の花粉を察するふりをする。坂ノ上女子寮が潰れてしまうなら、あの桜も切られてしまうのだろうか、と余計なことを考えてみる。
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