// 07.人形

愛してる。
愛してる。
愛してる。
愛してた。
さようなら。
さようなら。
さようなら。


 私が起きた時、彼は素晴らしい笑顔だった。 その笑顔は何時まで経っても忘れられないほど、印象的な。 それに泣いてもいた。 おそらく、嬉し泣きという奴だろう。 どうしてそんなに喜んでいるのだろう、と私は不思議になった。 それと同時に何故か怒りがこみ上げてくる。 得体の知れない怒りなのに、正当な理由を持ってして生まれたような気がしてならない。 そんな有耶無耶な怒りを、私は物理的に抑えようとした。 そうすると、無意識に彼の頭を拳で殴っていた。 殴った拳は痛くなかった。 だから何度も何度も殴った。 彼が先程の私のように、わけがわからないという顔つきをしている。 笑顔もいつしか怯えた表情だ。 それが余計に私の怒りを際立たせる。
 ――私をこんな体にしたくせに!
 叫びたい衝動をこらえた代わりに、私はとうとう近くにあったスパナらしい工具で彼を殴った。 鈍いが耳を塞ぎたくなるような生々しい音がしたところで、恐らく頭蓋骨が壊れたのだろう。 もちろん、先程の殴打とその頭蓋骨を破壊させたせいで、私は血まみれになっていた。 何も着ていなかったので服が汚れるなんてことはなかった。 そんなことばかりで恐れはなく、むしろまだ怒りが有り余ってさえいた。
 どうやってこの怒りを抑えよう、と考えている横で彼の体がびくびく動いていた。 生体反応というものだろうか。 まだ生きているようで気持ちが悪かったので、スパナと同じ場所に仕舞われていたドライバーを持ち出した。 彼の死体にまたがり、両手でドライバーをしっかり握り、彼の胸元を思い切り刺した。 肋骨は上手くすり抜けたらしい。 皮膚を突き破り、筋肉を突き抜け、心臓を綺麗に突き刺した感覚だけを得れた。 そうやって彼の死体を淡々と死体にしていく自分も、気持ちが悪いと思う。 ようやく彼が動きを止めたことを確認し、ゆっくりとドライバーが刺さったままの死体から下りた。 どうしてこんなことになってしまったのだろう。 頭が痛くなってきた。 けれどそれはこれからの不安を表す表現にしか過ぎず、実際は痛くも痒くもなんともない。 先程も殴打した際、拳は痛くなかった。
 自分は、もしや痛覚がないのだろうか。 ゆっくりと血がこびり付いた指で、腕の皮膚をつねる。 痛くない。けれどつねられている、という感覚はある。 昔何らかの本で、人を無痛覚にするという方法が書かれていた。 簡単な手術でそれはできたが、きっちりと法律で禁止されていることも記述にあった。 そんな手術をされたのだろうかと推測してみるが、今一確実には思えない。 第一する理由がない。
 ふと横をみると、鏡があった。 裸で血だらけの私と、彼の死体が映っている。 長い髪も血がついて汚い。 洗いたいと思った。 ちょうどその狭い部屋の奥にあったシャワールームに入る。 お湯で洗い流すと、髪や体についた血でお湯が赤く染まっていった。 狭いので風呂はなかったが、それで充分だった。 ああ、でも、そこであることに気付く。
「――あれ」
 低い、いやけれど男にしたらきっと高いほうの声で、呟いた。 私の体は男になっていた。 いや、違う。 私はシャワーを流したまま、シャワールームを出て部屋にあった鏡を手に取る。 そして、顔を確認した。 顔は、まったく知らない、男の顔だ。 ぞわぞわと私を覆う嫌悪感。 あれ、あれ、あれ。
「なんで――」
 私はそのまま、飛び散った血を避けず、彼のデスクらしいところに飛びついた。 一冊のシンプルなノートを広げる。 それしかなかったから、それしか開けられなかった。 中には汚い字で書かれた日付と彼が書いたらしい文。 どうやらこれは日記のようだ。 震える手でめくっていく。 必要な情報だけを脳内に留めて。 最後までめくり終えると、私は血だまりに、腰を下ろした。 気持ちが悪いほど白い、不健康的な肌が赤黒い血で汚くなる。
「あ、ふう……っぐ……!」
 泣こうと思ったが、涙は出てこない。 それが何よりの証拠。私が人形となった、何よりの。 またそれが悔しくて、泣くこともできないくせに私は泣き続ける。 だから私は彼を殺してしまったんだ。人形なんてものにした彼に。 私は泣き続ける。 その間、彼の色んなことを思い出す。 彼が恋人であることとか、彼が世界的な研究者であることとか 彼が人付き合いの苦手な人だったとか、私だけに心を開いてくれたとか。 そんな今思い出すにはあまりに痛々しい思い出ばかり。 普通の恋愛小説みたいな話なら良かった。 馬鹿みたいなことで悩んで、結局ハッピーエンドになるつまらない話でよかった。 思い出して後悔して死にたくなって、それを私は繰り返す。 彼の血だまりがあまりに冷たくて。
「あの」
 一瞬、記憶の中の死体が自分に尋ねかけてきたのかと思った。 だがもちろんそれは違って、現実の、今目の前にいる少女が僕に対して言っただけだった。 無理矢理口角を吊り上げて、優しい笑顔を少女に向ける。
「どうかした?」
「ノアさんは人形、なんですよね。でも、人形は感情と記憶を持ち合わせないと聞いたんですが」
「うん、君の聞いたっていうのは間違いだね。そもそも人形に刻み込まれた情報だ。 まあそれは置いておいて。実は感情も記憶も人形は持てる。 ただ成功率が大分低いんだよ。つまり、失敗作が生まれやすいってことさ。 もう分かると思うけど――その失敗作が、君だ。 多分変な自信を持った研究者か誰かに、ご両親が頼んじゃないかな。 さっき君がパパとかママとか、突然言い方が幼くなっただろう。 あれは記憶の欠片だ。それを人形に埋め込めただけでも研究者は凄いっていえると思うよ。 ただ、ひどく中途半端になって、君は人形であることを忘れた。 人間だと勘違いして、記憶の欠片の中でも一番強力な『成長する』ってことが 強迫観念じみたものに変化しちゃったんだろうね。 それで人形には食べられないものを食べ続けたんだと思う」
 少女は唖然としたように、あるいは失望したように俯く。 か細い体が震える。手はぎゅっとスカートの端をつかんで、小刻みに。 残酷な宣言だということは、わかっている。 誰よりも僕がわかっている。 だからこそ、わかっている。 眼を強く瞑る。 九重ちゃんは、小さな声で、尋ねる。
「じゃ、あ……、それから、ノアさんは、どうしたんですか」
「うん、彼が人付き合いが苦手ってことが幸いしてね。 彼の名前でしばらく生活できたよ。人前にも出なかった人だったから。 勿論死にたいとは思ったけど、ここで死んだら彼が命をかけてまでやった研究に 意味がないと思ってね。 彼の研究を彼の名前で発表して――もちろん感情と記憶は移植不可能ことにして―― 自分一人で生活できるところまでになったら、都会を離れてこっちに来たんだ」
「じゃあ、もしかしてエア君も、その……人形、ですか?」
 ほんの少し、笑いかけた。 いや多分もう笑っていたと思う。 あまりにその質問が道化師のようで。 ――滑稽で、間抜けで、物悲しい、道化師みたいに。 僕は笑う。 最高に笑う。
「いや、あの子は違うよ、人形じゃない」
 息が詰まったような顔をしていた彼女の顔が、緩む。 けれど、僕は笑ったまま続けていった。

「あの子は、彼のクローンなだけさ。 やっぱりクローンは人形より難しいから、視力がやけに低くなってしまったんだけどね。 赤いコンタクトレンズをしてなんとかやっていってるよ」
 また九重ちゃんの顔が唖然とする。 ああ、表情を変えるのはきっと疲れるだろうに。 モーターをぐるぐる稼動させて、中の主機械が表情のほうに反射的に――。 そこまで考えて、僕はやめた。
「もう、これでお話は終わり。さあ、帰りな」
「え? でも、治療は」
「君が自覚してるかしてないか。それだけの問題だったから」
 さあ、帰りな。僕はもう一度言って、一つ息をつく。
「――実はね、僕はこの森に住むとき、主と約束してしまったんだ。 普通は形代を使う約束を、自分の体でもって。 まさかこんなところでこの体が役に立つとは思わなかったよ。 僕はこの森から壊れるまで一生逃げることはできない。 だから、いつもここにいるよ」
 いつまでもいつでも。 彼女は僕の瞳を一瞬だけ見て、そらした。 お礼を丁寧に言って、部屋を出る。 その声はもう遠く、かすかに聞こえる程度で。 僕は椅子に沈み込む。 冷えた紅茶を飲みながら。 紅茶は死んだ彼の最後の愛情。
――『紅茶の好きな彼女が、いつでも紅茶を飲めるよう』
 最後の日記に、綺麗な字でそう書かれていた。 もう日記は燃やしてしまったから見れないけれど。 僕の頭の中で壊れるまで保存されるだろう。 僕は涙を流す。 紅茶色の、甘い甘い涙を。 つたって床に落ちる間。 瞬間彼を思い出して。 僕は涙を流す。

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