// 06.子供

私は口いっぱいに食べ物を頬張る。
体が拒否しても無理矢理詰め込む。
吐き出しそうになってでも詰め込む。
そうしなければいけないんだ、駄目なんだ。
私は大きくなれないんだ。

 私は両手に掴めるだけ、食べ物を掴んで口に入れる。 それを機械的に繰り返す。 口から溢れかえる原型がわからなくなった食べ物。 ぐちゃぐちゃと私のまわりに落ちる。 誰かが止めてくる。 やめなさい、もう駄目、誰か止めて。 悲痛な叫び声が、私の耳が痛くなるぐらい近くで聞こえる。 誰の声だっけ、ええっと、ああ、そうだ。 お母さんの声だ。 声のするほうへ首を動かす。 泣いている。 私はそれを視界に収めると、手をぴたりと止めた。 母は荒い息をおさえるように、胸に手をやる。 息が中々治まらないようだ。 私は唾液と食べ物で汚れた手を、母の背中にやる。 そして、できるだけ優しく撫ぜた。
「ん……、有難う、九重」
「いいのよ、お母さん」
 優しい台詞を、私は淡々と返した。 先程の争いとまるで違う。それはとても異常な状況。 いや、状況だけじゃない、きっと、私と母も異常に違いない。 玄関から大きい物音がした。
「大丈夫か!」
 父だった。 母がまた私が食べているのを見て、連絡したのだろう。 慌てて帰ってきたため、髪が乱れている。 はねた一本の白髪が見えた。 父が胸をおさえている母に駆け寄る。 その隣にいた私は、跳ね飛ばされそうになった。 大丈夫か、ええ大丈夫ですよ、またか……、許してあげてくださいね。 そんな会話の切れ端。 ごめんなさい、と私は思いながら聞く。 二人がぼそぼそと話してしばらく、父が振り返った。 取り繕ったような笑顔を見せる。
「どうしたの、お父さん」
「病院へ行こう、九重」
「なんで?」
「お前がそんなことになっているのを見ると、お父さんは苦しい。 母さんがそれを止めようとこんな姿になっているのも、いやだ。 お前もそうだろう?」
 私はよくわからなかった。けれど頷いて、肯定する。
「そうだろう。だから、病院へ行こう。 そうすれば、お前の病気もなおるかも知れない」
「うん、わかった」
 母もほっとしたような笑みをこぼした。 私はそんな母に肩を貸し、ベッドへ連れて行く。 彼女の体がいやに軽かった。
「――成程」
 彼は頷きながら、そう呟いた。 私が椅子に座って待っている間、両親が熱心に私の病気について話したのだ。 彼は父の白髪なんて嘘みたいな、長い白髪をしている。 そして丸い眼鏡をかけており顔立ちは悪くないほうだ。 けれどなんとなく拍子ぬけるような雰囲気がする。 そんな彼が、訪れた病院の医者だった。 つい最近できたばかりで、今まで風邪を引いたら 隣の町にまで行かなければならなかった村人は大喜びだった、と聞く。 けれどそもそも、村人は丈夫なほうで風邪なんかは早々引かないはずだ。 それでも喜ぶのはやはり、ないよりあったほうがいい、という心理のせいだろうか。 そこまで考えると、彼がもう一度、深く頷いた。
「ご両親のお話はよくわかりました。 それじゃあ、今からええと、ココノエちゃん、とお話させてもらってもいいですか?」
「ええ、お願いします」
 今まで両親の話を聞いてくれる人はいなかった。 だから興奮したのだろう、母は目元をハンカチでおさえている。 父はそんな母の両肩を抱き、医者に深くお辞儀をした。 母の嗚咽が聞こえるたびに、私はなんだかやるせなくなる。
「診察室、こっち」
「有難う」
 いつの間にか、知らない男の子が立っていた。 私より少し高い身長で、体格も良い。 同い年ぐらいだろうか。 黒い髪に赤い瞳が印象的だった。 そんな彼についていくと、白い部屋に辿り着く。 男の子はその部屋に入るとき、鼻をつまんだ。
「この部屋、さっきノアが馬鹿なことやったばかりだから臭ェけど我慢しろよ」
「ノア、って?」
「ああ、さっきお前の両親と話していた奴」
 ふうん、と私は呟く。 ノアといえば連想するのは、やはりノアの箱舟。 本で読んだことがあった。 けれどなんだかその話と彼は、噛みあわない感じする。 彼にはもっとぴったりな名前があるような気がした。 ――他人の名前にそんなことを言うのは悪いだろう。 私は思考を切り替える。
 ゆっくり診察室に足を踏み込んだ。 そこで匂いがなんとか、と男の子が言っていたのを思い出す。 今さっき話したことばかりのことを忘れるなんて。 けれど私の鼻が悪いのか、彼の鼻がいいのかわからないが 私には特に変な臭いは感じなかった。 部屋には彼――ノアが、既に私が座るべき椅子の前に座っていた。
「やあ、改めましてこんにちは」
「……こんにちは」
「リラックスしていいからね、九重ちゃん。 とりあえず、今喉渇いてる? よかったらさっきエアが作った紅茶とあるんだけど」
「エア?」
「さっきの男の子」
 私はそれに頷きつつも、紅茶は遠慮した。
「それじゃあ、何から話そうか。 あー、九重ちゃんは何か聞きたいこととかある? 僕に」
「変な質問させんじゃねえぞ」
 男の子、エアくんが鼻をつまみながら、余った手で紅茶を持ってきた。 まだそんなに臭いのだろうか。 一度思い切って臭いをかぐが、よくわからない。 彼が乱暴に机に紅茶を置いたところで、ノアさんがつっかかった。
「やだな、僕がどんな質問をさせようとして見える! ほら、この輝く瞳を見てごらん!」
「俺には薄汚れた大人の目にしか見えねえよ」
 やり取りとしては最悪だろう。 それでも何処か微笑ましさを感じる。 私も両親とあそこまで邪悪じゃなくても 純粋に会話を楽しんでいたときがあった。 ――気がした。 とてつもない、何の信頼も信用もない。 ただ感覚だけが覚えている気がした。 細胞が覚えている。 確実にそんなときがあった。 けれど、口に出せるほど確かなものじゃない。 なんだか頭が痛くなりそうだ。 いつもそうだ。 思い出さなきゃいけないことを思い出せない。 それにいらついて頭が痛くなりそうになる。 私は頭を押さえた。
「どうしたの、九重ちゃん」
「……いえ、なんでもないんです。 それより、一つ噂で聞いたことをお尋ねしたいんですけど」
「ん? 何?」
 本当に風の噂。 誰が言い始めて誰が尾びれをつけて誰が話していたのか。 全くわからない、覚えていない。 そんな話。けれど私の興味を異常なほどに引き付ける。
「ここに人形がいるって聞きました。本当ですか?」
 ぴたり。 ごちゃごちゃしていた二人の動きが止まった。 ゆっくりとノアさんを殴りかけていた腕を下ろす男の子。
「そんなの、何処で知ったんだよ」
「……覚えてないけど」
「――そんならいいけど。あー、人形ならもう壊れたよ、とっくに」
 参った、とでもいうように乱暴に自分の頭をかく。 そして仕方なさそうに言った。
「女性子宮内臓型人形な。 実験的な奴だから、普及はされてない。 それにしてもまったく、どっからそんな噂流れたんだか」
 ぶつぶつと呟くエアくんを見て、ノアさんが苦笑する。 あんまり触れられたくない話題だったのだろうか。 けれど、私の聞いた噂とは違った。 触れられたくないのだろうけれど。 触れたくて仕方がない。
「あの、男性一般型人形は、いないんですか?」
「男性一般型? そんなものはいねえよ。 誰だか知らねえ奴が言った尾びれ話信じ――これだか――」
 突然エアくんの声が遠のいた。 意識が遠くなるように遠のいた。 何故だろう、泣きたくなりもした。 サンタはいると親に言われて信じていたのに もう子供じゃないんだからと、サンタなんていないと言われたように。 私は最初からサンタなんて信じていなかったけど。 いや、ああ、そうか、思い出した。 その噂を言っていたのは母さん。 だから迷いもなく信じきった。 違う。それだけじゃない。 いや、母さんだから。 ごちゃごちゃしてきた。 気持ちが悪い。
「……嘘だ」
「は?」
 エアくんの声。
「嘘だ、人形はいる」
「だから、いないんだって」
 いるよ、いる。
「俺は人間だし、ノアだって――」
「証明すればいいんでしょう」
 耳にノイズが混ざってきた。 エアくんの声と聞こえるのは、昔の父の声。 私を抱き上げて、大きくなったねと言う。 それに紛れて母の笑い声。 私の泣き声。 エアくんの声。 ノアさんの声。 ノイズ。 砂嵐。
 私はノアさんの飲みかけの紅茶のカップを思い切り割る。 その割れた欠片で、ノアさんの手を狙う。 一番近いのは左手。 そこを狙って、切る。 ノアさんが避けようとするのをなんとなく感じた。 けれどもう逃がさない逃さない。 欠片で左手の甲をぐさり、と刺す感覚。 骨にあたったのか、意外と硬かった。 そして出てきた液体は、何色? 赤い色。
「……あれ?」
 少しの戸惑い。瞬間だった。 その瞬間に、ノアさんに手をつかまれた。 がしりと。
「駄目だって」
「……あれ」
 もう一度呟いた。
「血?」
「ノアは人間なんだから、血が出るに決まってんだろ!」
 ノアさんがとっていた私の手と、もう片方の手をエアくんが奪い 壁に叩きつけるようにする。身動きが、とれない。 そして鈍い音。私の手からカップの欠片がすべり落ちる音も。 何ぼけっとしてんだよ、ノア! そんなエアくんの声。ごめん、と謝るノアさんの声。 いや、いやいや。嘘、嘘々。 何がだよ、自分に毒づく。 動きが取れないまま、ひたすら年下か同い年の男の子の叱咤と 若い医者の固い表情と手の甲から流れ出る血を、見る。 何の騒ぎかと父と母が入ってきた。 けれどそれをノアさんは止める。
 大丈夫ですから、落ち着いてください。 エアも手を離して、外へ出て。 大丈夫です、大丈夫ですから。
 エアくんは大人しく手を離してくれたが、両親はそれを拒否しようとした。 矢張り無理だったのだと、諦めようとした。 だけど、その拒否すらも拒否する、彼。
「お願いします、少しだけでいいです。僕と彼女を、二人だけにさせてください」
 流れ出る血をそのままに。 彼は頭を下げた。 両親の戸惑う雰囲気が、伝わる。 だから私は口を開いた。
「パパ、ママ。私は大丈夫。でもごめんなさい、心配かけて。 ノアさんと少しだけ話をさせて」
 戸惑いがさらに濃く、濃く。 だから私も言葉を重ねようとした。 けれど、父が先に口を開く。
「わかった。……母さん、行こう」
「でもあなた」
「行こう」
 母には甘すぎるぐらい、優しい父が珍しく強い口調で言った。 母の肩を抱き、無理矢理外に連れ出すように。 その後にエアくんも付いていく。 少し心配そうに、あるいは私に対して警戒心でも見せるように。 こちらを見たまま部屋を出て行った。 そこでようやく緊張の糸が切れたようだ。 ――ノアさんの、だけれど。 力が抜けたように、彼の専用らしい椅子に座った。 溜息も聞こえてくる。
「あー、死ぬかと思った。 それにしても、よく知っていたね。 人形と人を見分ける一番分かりやすい方法が血を見る、なんて。 まあ、人形の場合は血っていえるかどうか分からないけど。 色がついてないし、死体腐敗防止剤って言ったほうが正しいかな」
「それは」
 自分でも分からないが、なんとなく、知っていた。 本能的にとでも言うのか。違う、本能的にではない。 色んな可能性を思いついては否定する。 駄目だ、さっきから私は駄目だ。 ここに来てからどうも調子が狂う。 いや、調子どころじゃない。 私の頭の中が、まるで。 何処か誰かにいじられてるように。
「それにしても不思議だね。というか、面白いよ」
 血がまだ流れ出たままの指を、私の頬にそっと伸ばす。 触れた瞬間、少し体が震えた。 怖い、と思った。
「共鳴って言っていいのかな。 やっぱり、分かっちゃうよね。 ――だから特別だよ。 君にだけ、ひどくつまらないオチも先も何も見えない考えられない そんなくだらない馬鹿みたいな微塵にも面白くない物語を話すよ」
 わけがわからなかった。 彼はひどくひどくひどく、愉快そうに、口の端を吊り上げて。

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