// 03.眠り王子

笑い声は絶えない。
ずっと私の耳の奥に残る、笑い声。
私は本当にあの笑い声が好きだったのだ。
嘘ではない。
本当に、本当に、好きだったのだ。
笑い声が、耳の奥で響いて、耐えられない。


 私は、ふと気付くとベッドに倒れこんで寝ていた。 座りながらだったせいだ、腰が痛い。 その前に目の前の"ソレ"に私は驚いて、体をそらす。 見慣れたものだとしても、やはり寝起きには驚く。 立ち上がって、もうすぐ来るらしい先生を待つことにした。 お茶でも入れておこう。 気分が少し優れない。 "あの人"のついでに、先生に診てもらおうか。 紅茶を入れながら、ふらふらする体を支える。 そうだ、出しっぱなしにしていた本も片付けなければ、と思いながら。 先生とは、同じ森に住む変わった医師のことだ。 噂で聞いて、電話しただけだったので会ったことはない。 ただ、先生は問診に出かけない人だから幸運だとは村人からは言われた。 正直、私は来ないほうが幸運ではないだろうかと思った。 ちりん、と扉が鳴る。 私は慌てて振り返り、頭を下げた。
「やっ、どーもどーも」
 言動が至って軽い医師だった。 見た目は細長いイメージ。 隣には、幼い少年が大きいカバンを持っている。 助手だろう。きっとあの中に、薬などが入ってるんだ。 私は無理矢理頬を歪ませて、笑い返す。
「わざわざ来て頂いて、申し訳ありません」
「いえ、いいんですよ。同じ森の中ですし。 彼とは以前、話をしたこともありましたし。 とても良い薬草学士と評判でしたよ」
 ということは、森の外だと駄目だったということだろうか。 なんていう面倒臭がりな医師なんだ。 またも私は無理矢理笑いを取り繕う。 きっと先生が帰る頃には、頬が強張って動かない。 私はその不自然な表情のまま二人に紅茶を差し出す。 先生はとてもにこやかに、嬉しそうに飲み始めたが 男の子のほうが遠慮し――あるいは、用心し――手をつける様子は見せなかった。 この紅茶には、毒なんて入っていないのに。 先生を見ながら、ふと"あの人"のことを思い出して唇をかみ締めた。 半分ほど飲み干したところで、先生が口を開く。
「で、寝たきりの患者さんとは、何処にいらっしゃるんでしょうか」
 どきりとした。 別に悪いことは何も言われてないのに。 まるで先程したばかりの悪事を、つらつらと言われてるような気分だ。 私はおどおどとしながら、案内をした。 先程私が眠っていた部屋だ。
「……人がいるようには、思えませんね」
 男の子が、ぽつりと呟く。 その通りだ。 まるで人の気配はない。 死人の気配すらも。 先生が、案内する私を抜かして、ベッドをめくる。 そして少し苦笑したようにしながら、男の子に言う。
「エア、ちょっと外に出てなさい」
「は? なんで」
「いいから出てなさい。言うこと聞かない子は食べちゃうぞ」
 その台詞に、少し恨みがましそうにしながら エアと呼ばれた男の子は外に出て行った。 食べちゃうの意味がどちらかは私には読み取れない。 ただ、エア君は鞄を持ったまま出て行ったけれど、良かったのだろうか。 彼が出て行ったのを確認すると 先生は"あの人"にかけられたシーツを一気にめくる。 途端に、腐臭が部屋にうずめく。 私は吐きそうになった。 先生は表情を変えずに、困ったように笑うだけだ。
「参りましたね」
「……ええ」
 シーツをめくると、"あの人"がいた。 皮と骨の、虫に蝕まれた、"あの人"が。 顔はよく骨格がわかるぐらい、痩せ細っていた。 目はぽろりと落ちてしまいそうなぐらい、飛び出ている。 体も骨が丸見えだ。 まるで森に放置され、動物達が食べたように 臓器がすこし見えていた。 実際は、自然と体が綻んで言ったのだ。 体が綻ぶ、というのは、不自然な言い方だろうか。 とにかくただただ、ウジムシが沸くそれを、私は直視できない。 目をそらしたまま、先生に言う。
「一ヶ月ぐらい前から、こうでした。 最初は肉がなくなって、体が痩せ細って。 次は腹の臓器が見え始めて、ウジムシが……」
 我慢出来ず、私は吐いた。 何度も吐いた。 何も食べてないから、胃液だけが床に飛び散る。 涙も零れてきた。 苦しい。 全部吐き終えたら、私は立ち上がる。 袖で口元を拭いながら。
「……先生、この人は、どうなるんですか。 生きれはしないんですか、お願いします」
「残念ですけど」
 ちっとも残念そうじゃなかった。
「駄目ですね。 もう少し早く連絡して、早く手当てをしていればよかったですけど。 でも、とりあえず注射は打っておきましょう」
「注射?」
 死んでしまうのに? 私が不思議そうな顔をしている間に 何処からか取り出した注射に液体を入れ、彼に注射した。 今まで微動だにしなかった彼が、ぴくりと動く。 私は震えた。
「何の、薬ですか? 安楽死――とか、では」
「いえ。あと一時間後にわかります」
 説明して欲しかった。 でも、説明を求めてもきっと彼は話さないだろう。 それに薬と言ってもやはり安楽死か痛み止めかなんかだ。 聞くほどのものでもないだろう。 私は頭を下げて、先生にお礼を差し出す。
「有難うございました」
「いえ、残り短い間、彼と好きなように過ごしてくださいね」
 そして先生は立ち去る。 私はほっとした。 扉の閉まる音。と、同時に。 もっとしっかり言えば同時ではない。 そのすぐ後だ。 先生が顔を出して、言った。
「"薬草"って言ってもたくさんありますよね。 違う効力で似てるものも、同じ効力でまるで違うものも。 病気を治すものもあるし、あるいは死ぬものも、あるいは」
 にこっと笑う、先生。
「まあ、そんなことはどうでもいいんですけどね。それじゃあ」
 ぱたん、と締められた扉。 私は呆然と立ち尽くしたあと、台所にあった包丁を手に取った。 そして、その包丁を扉に突き刺した。 何度も何度も何度も何度も何度でも。 突き刺す、突き刺して、突き刺した。 すべて分かっていたのだあいつは。 すべて分かりきったようにいや実際分かっていたんだ。 私が彼をああしたことを、分かって。
 彼と私は恋人だった。そして彼は浮気した。 だから憎くて、薬草学士だった彼の 持っていた本にあった毒草を、彼の紅茶に混ぜた。 けれど、死ぬと書いてあったのに死ななかった。 もしかしたら、量が足りなかったのかもしれない。 私は毎日入れ続けた。 ある日、彼が倒れた。 私は草が効いたのだ、と思った。 でも、彼は意識があったし、まるで風邪のような症状を引いただけだ。 その頃には毒草は諦めたし、浮気も終わった出来事となっていた。 それだというのに。 毎日の看病も虚しく、彼はどんどん衰えていった。 何故、どうして。 私は包丁の刃がこぼれかける頃に、疲れてやめた。 扉がぼろぼろになる。 座り込んで、息を整えた。 先程の医師の言葉を思い出す。
『"薬草"って言ってもたくさんありますよね。違う効力で似てるものも――』
 違う効力で似てるもの。 きっと私が彼にしたのはそれだ。 先生たちが来る前にしまった本を、取り出す。 薬草の本だ。 めくろうとすると、一枚の紙がはらりと落ちた。 すこし長い、厚い紙だ。 拾って、読んでみる。 誰からだ。先生か? 機械でタイピングされたらしい、ものだ。 いつの間に、こんなものを。
『今、貴女はどうしていらっしゃるでしょうか。 これを読んでいただけてたら、生きていらっしゃるのでしょうね。 笑って読んでいただけたら、こちらとしては幸い極まりないですし 恐ろしく真面目に読んでいるならば、きっと不幸極まりないのでしょう。 どちらにせよ、生きて読んでいただけてることが、一つの幸いです。 さて、私が何故この手紙、メモをこの本に挟み残したかと言うと やはり薬草学士として貴女に理解して頂きたいからです』
 ここで先生からでなく、彼からだと言うことに気付いて眩暈した。
『貴女が服用させた薬草は、毒草です。 ですが恐らく貴女の思うものとは違います。 その毒草は似たものが三種類ほどあるのです。 一つは、死ぬ作用があるもの。これが貴女の目当てのものかと考えます。 一つは、何の作用もないもの。これは貴女がよく飲む紅茶などで使われるものです。 一つは、人間に対して腐敗作用があるもの。これが貴女が間違えて服用させようとしたものです。 三つ目は、今現在既になくなっていると考えられていたものです。 ですがまさか存在したとは私も驚く限りです。 ただ、ここで一つ間違いがあります』
 手が、ガクガク震える。 もうこれ以上読みたくない。 でも、読まなきゃいけない気がした。
『貴女が私に飲ませようとした毒草は、実際に貴女が飲んだということです』
 意味がわからなかった。 だけれど、とにかく、不自然なほど、恐ろしい、気持ち悪い、世界が。
『私は貴女が浮気に気付いたとき、そうされることがわかりました。 だから、貴女がその毒草を取りに、家にいない間に入れ替えました。 とても反省しています。 反省しすぎて、私はやつれてきました。 罪悪感が募ります。 書いている今も、悲しいぐらい。 今、貴女は料理を作ってくれている音がします。 毒草は入っていないようです。 だから私は、一つ目の毒草。 死ぬ毒草を自ら食べたのです。 死ぬといっても、即効性はなく、じっくりと死ぬものです。 意識のあるまま、ゆっくりと。 ですが私はできるだけ早く死にたかったので 自らナイフで腹に切れ目を入れました。 ウジムシが沸くだけでした。 ほんとうに、わたしは、こうかいしています。 わたしは、ほんとうに、あなたが、あなたを』
 そこで終わっていた。 泣き喚きたい。 最後の文があまりにも哀れで。 自分が哀れで。 彼が哀れで。 私の涙で、その手紙の文がにじんでいくのが分かった。 ただ、泣いているときにはっとした。 もう一度読み直す。
『貴女が私に飲ませようとした毒草は、実際に貴女が飲んだということです』
 声が、詰まる。のどが、詰まる。 入れ替えた。 つまり、人間を腐敗させる作用のあるものを私が。 私は慌てて彼の部屋に戻り、自分の引き出しから数年ほど出してなかった ほこりかぶった手鏡を取り出す。 そして、自分の顔を見た。 ……。 何も変わって、いなかった。 ほっと、安心した。 肩の力を抜く。 ぼとり。 あれ? と私は思った。 何かが取れた。 手鏡を持っている、腕を見る。 腕がなかった。
「いっ……!?」
 床に落ちていた。 血もなく、何もなく、壊れた人形のように。
「な、なんでよ。これは、な」
 ぼろぼろ、体がどんどん崩れていく。 足が腹が腕が肩がどんどんどんどんどんどん。 泣きたくなるが、涙はない。 とうとう頭だけになってしまった。 でも、意識はあった。 私はこのまま死ぬのだ。 そう思うと、また泣けてくる。 でもやっぱり涙は流れない。 ふと、拾われる感触がした。 そんな人は誰もいないのに。 私の顔を、自分の方に向かせる。
 彼だった。 前の、本当に生きていた頃の。 にこっと笑う彼。そして、笑い声。 泣きそうな耳が痛くなるような痛々しい、笑い声。
「僕らは本当に、哀れだね」
 そういった。 そうして、頭をその高さから落とされる。 落ちるときに、彼の手紙に付箋がついていた。 先生からだった。
『死ぬ前に、数十分だけ細胞が生き返る薬を打ちました』
 その綺麗な字が、ぐんぐんぐんぐん迫ってきて。

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